鎌倉時代後半に次々に生み出された神道論は、
理論的な仏教に対抗して現世の秩序を論じ、
統一的思想を模索する様になったとされます。
後に禅僧の間で儒学への関心が強まるにつれ
現世の倫理や政治の論義が禅宗寺院で行われ、
思想の第一線から退いていったそうです。
神道論は民間の神祇信仰や縁起の世界との
結びつきを強めていった中世において
ラストを飾る書としてあげられるのが、
『唯一神道名法要集』とされていますね。
作者の吉田兼倶(かねとも)は卜部氏の出で、
神道界での吉田家の位置を最大限に利用し、
全神道界を支配する地位を築こうとした
人物として評される事があります。
彼を祀る神社は吉田神社境内にあり
参拝しに行った事がありますが、
吉田神社を創出して大元宮を造った
人物としても知られています。
ただここに大きな問題があって、
彼の家系図も捏造とされますが、
この周辺は大きく事情と異なる
可能性が存在しています。
曹洞宗の禅僧が儒教を学んだと
一般的には言われるのですが、
南朝系真言密教寺院が室町幕府に
曹洞宗に改宗させられています。
そして鎌倉幕府を打倒したのが
南朝の後醍醐天皇とされますが、
この辺りに矛盾を示す物証は、
東三河に幾つも残されています。
鎌倉時代に出て来た仏教こそが
後に様々な問題を起こしており、
平家の残党が興した新興宗教が
危険な一揆を起こした可能性は、
以前記事にした事があります。
となると鎌倉後半の神道論が
仏教に対抗したのではなく、
仏教側が神道論に対する
言い掛かりをつける事で、
勢力拡大を狙っていそうです。
鎌倉時代には仏教系新興宗教が
幾つも出た事が知られており、
ここから一向一揆などにまで
発展した歴史も存在しています。
室町幕府による歴史の捏造で
鎌倉~南朝の神道が抹消され、
官学であった朱子学が禅僧に
学ばれた事になったのであれば、
吉田兼倶やその家系図だけでなく
彼の書いたとされる神道書すらも、
捏造された可能性が浮上します。