唐と新羅の降伏

会昌の廃仏後の時代の新羅は
衰退の流れにあったとされ、
金両基著の『物語韓国の歴史』は、
新羅の滅亡をこう記しています。

934年、新羅は922年間の
王朝の幕を閉じたが、
その血は高麗王家に
つながっていった。
それをもって、世間では
「新羅は滅んでも血は生き残った」
と言うようになった。
両王家の婚姻関係が結ばれると、
両王侯貴族の間でも
それが盛んになっていった。
韓国の歴史上、このように、
血を流さずスムーズに
王朝がそっくり禅譲された例は
ほかにはない。

この時に新羅王が降伏の文書を
高麗の太祖王建に送ると、
礼を尽くして一行を迎え入れ、
素晴らしい待遇をなした事が
伝えられているのですが、
かなりの謎がありますね。

891年に北部で農民の反乱が勃発、
新羅の王子の一人・弓裔により
急速に勢力が拡大された事で、
901年に後高句麗を称したとされ、
やはり新羅と絡められています。

弓裔の部下であった王建が、
弓裔から後高句麗の実権を奪い、
918年に国号を高麗とした事で、
朝鮮は新羅・後百済・高麗の
後三国時代に突入したと
書き残されてはいますね。

全て新羅の問題によって
引き起こされた流れとして
伝えられているのですが、
新羅を悪く言い隠蔽を行う
以前からの流れでしょうか。

高麗が高句麗の末裔を
自称していたとすれば、
これと敵対する唐と新羅が
降伏してきたとする話は、
余りにも出来すぎです。

ユダヤ教の聖書を見ると、
異教の神を信奉する民俗を、
神の名により虐殺する事が
奨励されています。

騙して権力を奪い取るのが
旧約聖書に流れるテーマで、
仏教に偽装する事すらも、
普通に行っていますね。

会昌の廃仏で弾圧された後、
マニ教は道教を偽装して
命脈を保ったとされますが、
教義のねじ曲げをするのは、
マトモな精神ではありません。

高句麗の後に建国された
渤海が一神教の国家なら、
大規模な戦いがあっても
不思議ではありませんが、
余りにも都合の良い話の裏に、
凄惨な出来事が想定されます。

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