
橘氏と御霊神社
京都右京区下桂の御霊神社は、元は村社とされていますが、元禄二年の由緒書には八社の内、 第五、橘逸勢公当下桂ノ宮 と注が記されて...
遥かなる太古の三遠と今後のビジョンの探求
京都右京区下桂の御霊神社は、元は村社とされていますが、元禄二年の由緒書には八社の内、 第五、橘逸勢公当下桂ノ宮 と注が記されて...
京都に持ち返された逸勢の遺体がどこに葬られたかについては、仁安元年(1166)に橘以政が編したとされる『橘逸勢伝』に、墓の所在が記されてい...
豊橋からトンネルを通って浜松方面に坂を下る途中に橘逸勢神社が鎮座しています。 承和の変で伊豆へ流罪とされ、遠江国の板築駅に到った所で...
弘仁元年(810)に蔵人所と呼ばれる天皇の秘書的役職を令外官として設置、蔵人頭に藤原北家の藤原冬嗣が就任。冬嗣は嵯峨天皇に仕える事により、...
遣唐使として唐に留学し、空海と共に帰国したとされる橘逸勢の帰国後の消息は、殆ど分かっていない状況です。 『文徳実録』の嘉祥三年(八五...
達逸勢の帰国後の経歴は、文徳実録(嘉祥二年五月十五日)に 歸來之日、歴事數官、以年老羸病、靜居不仕。 と数官に歴事した後に老い...
延暦二十四(805)年二月一日、遣唐使一行と別れた逸勢・空海は、直ちに延康坊の西明寺に行ったと書き残されているようです。 西明寺は高...
空海は彼の著作の中で、儒教・道教と比較をして密教の優位性を説いており、散々にこき下ろしています。 しかし空海は東寺の隣に綜芸種智院を...
空海は大量の経典や仏具等を持参した事が伝えられますが、一緒に帰国した逸勢の持参した物は、当時の確実な文献には見えません。 梶井宮本氏...
橘嘉智子は嵯峨天皇の后となり、優れた功績を残したとされます。 嘉智子は橘氏の子弟のための修学施設である「学館院」を創設した事でも知ら...