プラトンと般若経

インドを統一して仏教を保護したアショーカ王の時代、
仏教は釈迦の教えから変遷を遂げていきますが、
大乗仏教に至るまでの過程には謎があります。

ギリシャ哲学が仏教と会合した可能性は
今まで記事にしてきましたが、
プラトンの『パイドン』には
次のように書いてあります。

しかし、(魂が)自分自身に還るとき、……別の世界、すなわち、
純粋性・永遠性・不死性・不変性の領域に入っていく。
それらの性質は魂と同族であるがゆえに、
魂は常にそれらと共に生きる。
魂が独存の状態になり、妨げを受けなくなったとき、
魂はもはや道を踏み外すのをやめ、
不変なるものと一体になり、その状態が常に不変となる。
そして魂のこの状態こそが叡智と呼ばれるものなのだ。

パイドロス』では、天より更に上の領域を語ります。

この領域に位置を占めているもの、
それは真の知識が与しているところの存在そのもの、
色なく、形なく、触れることもできず、
ただ魂の導き手である知性のみが観ることのできる
かの本質である。

理性と純粋な知識とによって育まれる神の知性は、
また自らに適した食物を摂取できるすべての魂の知性は、
実体を目にして喜びに満たされ、
天球の運動が一回りしてまた同じ場所に運ばれるまで、
真なるものをさらに眺めながら、
それによって奮い立ち、喜びを感じる。

その一回りするあいだに、
魂は、正義と、節制と、絶対の知識を目にする。
その知識とは、人間が存在物と呼んでいる
生成流転したり相対的な関係におかれる性格のものではなく、
絶対の存在の中にある絶対な知識なのだ。
魂はそのほかの真なるものも同じようにして眺め、
それらを大いに楽しんでしまうと、
再び天界の内側に入っていき、すみかへと還るのだ。

プラトンは生命の超越的な領域を
「色なく、形なく、触れることもできない本質」
としていますが、般若心経に似ていますね。
般若もここで言う絶対的な知識に近い概念です。

釈迦の仏教の後に説一切有部が
イデア論に似た法(ダルマ)を提唱し、
法と空の両輪を説いたこの一派は、
世界がイデア界と生成界から構成されるとする
プラトン哲学を仏教的に洗練した感じを受けます。

後に一切を空とする大乗仏教により
この論は否定されていく事になりますが、
この過程には様々な疑問が存在します。

般若心経は大乗仏教のものとされていますが、
初期の般若経には大乗の概念はなく、
大乗に至るまでの過程で重要な位置を占める
『阿閃(あしゅく)仏国教』は、
包括的な研究がなされていません。

女性は男性に転生しなければ
浄土に行けないとする信仰と違い、
阿閃仏国では女性も行けるとし、
実社会性も重視されています。

小乗仏教は自分の事しか考えていないと
大乗仏教から批判を受けますが、
プラトンの哲学は恋愛、軍事、政治など
実社会の様々なテーマを議論しています。

徐福がインドから持ち込んだ仏教は
大乗仏教となる前の段階のものであり、
プラトン哲学に類似したものであったのであれば、
自らの内を探求して不変の神性に至る修行が
徐福王朝で行われていたのでしょう。

儒教で言う至善に止まると言う概念も
プラトンの言う善に近い考えで、
目先の利害などの表層的なものでなく、
深い叡知をベースに運営されていた国家が
三遠に存在していた可能性があります。

物ばかりを重視し魂を疎かにした文明は
死の恐怖も併せ持つ事になりますが、
魂の永遠性を感じる幸福度の高い文明は
金や権力で表面を取り繕う必要がなく、
叡知を持ってそれらを使いこなし、
安らかに次の世代に引き渡せるのでしょう。

アショーカ王の仏教が根絶された背景には
現代にまで続く問題が控えていますが、
この問題の根を改善する鍵も
この国にあると思っています。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする