農耕労働は一つの儀式でした。
母なる大地の体の下で行なわれ、
植物の聖なる力を解放するものとして
神聖な側面を有していましたが、
危険な領域も存在していました。
開墾される前の主である精霊の怒りに向かい、
死者の支配下にある領域へと連れ行くものとして、
厳かな側面を持つ儀礼でもあったようです。
光の届かない地中は死者の世界とされ、
植えられた種が芽吹くのは、
死んで再生する姿を現しています。
自然を支配・征服・コントロールする
現代の傲慢な考え方とは違い、
生命の根幹に関わるものとしての
農耕儀礼やそれに結び付く信仰は
膨大な数に及ぶようです。
古代中国の『詩経』にも農耕儀礼が記され、
徐福によりこれが持ち込まれたとすれば、
古代日本にも数多くの農耕儀礼が存在し、
農耕を通して生死と向かい合っていたのでしょう。
農耕や食事は生死の根幹に関わるものであり、
美味しいものが食べられれば良いと言う考えでなく、
生死に関わる神聖な儀礼とされていたのなら、
現代の食生活とは本質的に違っていそうです。
自然の恩恵がなければ農耕も無意味なので、
自然の循環を無視した贅沢を良しとせず、
食べられるだけで有り難いと思えなければ、
その片面には死が存在しているのでしょう。
神聖なものは危険な側面に対する扱いも
同時に要求されるものなので、
美食に走り食料危機を見ようとしない現代は、
命に対して大きな罪を犯しているのかも知れません。
農耕は生命の循環に関わる重要な儀礼なので、
自家栽培を行う時も土地の精霊に感謝し、
植物の精霊と向かい合う姿勢で行えば、
古代人の感性に触れられそうです。
こうして採れた作物を食べる時は、
贅沢品を食べる時と全く違った深い感覚が
得られる事になるのでしょう。
一部では食料危機や備蓄の必要性が騒がれ、
世界的な食料事情も危険な状況ですが、
根本から見直しておくか否かで
大きな差がつくかも知れません。
農耕は大地をいじる作業をするので、
自然に生える雑草の記事を書いて着ましたが
大地との関わりに対する古代人の考え方も
書いていこうと思います。