弓月の君と倭国大乱

志多羅神と石清水八幡宮について書きましたが、
八幡宮の御祭神には応神天皇が入っています。

応神天皇の御代に渡来したとされる人物には、
弓月君(ゆづきのきみ)が伝えられています。

『日本書紀』では秦氏の先祖とされ、
『新撰姓氏録』では秦の始皇帝の後裔とされ、
融通王とも呼ばれた事が記されていますが、
その筋では有名人になっていますね。

『日本書紀』には応神天皇十四年、
弓月君は百済から民と共に帰化を希望するも
新羅に妨害されて三年も叶わず、
応神天皇十六年に軍を派遣して新羅を牽制、
弓月君の民の渡来がなったと記されます。

『日本書紀』に弓月君が百二十県の民を率い
帰化したと記しているところを見ると、
私の提唱している倭国大乱の原因となった
半島からの侵略の可能性が感じられるでしょう。

同じ時代に新羅の王子・天之日矛が
逃げた妻を追って渡来したとされます。

応神天皇の時代に新羅と百済の二つの国から
渡来があった事が記されていますが、
弓月君と敵対関係にあった新羅の王子が
同時期に帰化できるものなのでしょうか。

この侵略に抵抗し殺害された王が仲哀天皇で、
乱れた国を治めるために王となったのが
卑弥呼である神功皇后であったとすると、
『魏志倭人伝』の記述に合致する事になります。

応神天皇は半島から侵略してきた王であり、
弓月の民を率いて仲哀天皇を殺害するも、
後に倭の五王が半島を含め動乱を治めた話が
ヤマトタケルのモデルになった仮説を立てています。

この秦氏の前に徐福と共に渡来した秦氏があり、
二系統の秦氏が存在する説を提唱していますが、
二つの秦氏に関連性はあるのでしょうか。

『東三河の徐福伝承』に書きましたが、
全く別系であった可能性が高いようです。

二つの秦氏ともにヤタガラスが関わり、
各々のヤタガラスも別系のようで、
ここも一応は本に書いたのですが、
諸般の事情で削除する羽目になりました。

九州に行った時にたまたま仲哀天皇の墓を
駐車場奥に発見したので参拝しましたが、
天皇の墓とは思えない柱が一本立つだけの
簡素な場所だったのを覚えています。

暖かく迎えられた感じがしましたが、
ふと先住民族の王で殺されたのかなと
その時点では思った程度でした。
私の研究が慰霊になると良いのですが。

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