大本教と伊勢信仰

幕末から明治にかけての日本の動乱期に、
神道系の教祖が何人も輩出されました。

大本教に連なる宗教が乱立してきましたが、
幕末以降に成立した神道諸宗派の教祖の多くは、
「おかげまいり」か伊勢信仰と関係したようです。

黒住教の開祖・黒住宗忠(1780~1850年)は、
伊勢・春日・八幡の三社を祀る備前今村宮の神官で、
享和三年(1803年)の「おかげまいり」から
伊勢に何度か参拝に行っています。

天理教祖の中山みき(1797~1887年)も、
伊勢街道に面した大和丹波市に生まれ、
文政に行われた「おかげまいり」に
大きな影響を受けたようです。

金光教の教祖・川手文治郞(1814~1883年)は
伊勢の御師に従い大麻頒布に近くの村を回り、
文政「おかげまいり」に村人と参加しています。

金光教は最悪の祟り神とされる艮の金神を
復権させた事で有名な神道系新興宗教ですが、
伊勢信仰の影饗も強いとされています。

出口なおは艮の金神が神憑りした後に、
金光教から独立して大本教の開祖となります。

大本教に連なる一連の流れ以外にも、
幕末から伊勢信仰の民衆への普及の中、
文政の「おかげまいり」を契機として
様々な教祖が生まれてきました。

富士講の月行僧仲・食行身禄、烏伝神道の梅辻規清、
井上正鐵、平田篤胤、大塩平八郎に見られる様に、
社会変革者の多くが伊勢信仰と関係します。

この「おかげまいり」は東三河と密接な関係があり、
伊勢信仰も伊勢神道の源流を探ると三遠に連なります。

この流れの古層に志多羅神事件があり、
これらに連なる「ええじゃないか」の発祥地が
豊橋とされている事には驚愕しますね。

「おかげまいり」が幕末に多大な影響を与えたなら、
これを偶発的に起こったムーブメントと見るのは
かなりの無理があるのかも知れません。

現在でもこれらの神道系宗教の信者は多く、
艮の金神はこの頃から世に出されてきましたが、
この源流とされる鬼道と三遠との関係まで
認識している人は殆ど存在しないでしょう。

これら幕末以降に登場した神道に関心があれば、
三遠をそのメッカとして聖地参拝する事で、
その根源に触れる事が出来るのでしょうか。

三遠の徐福王朝はアレクサンドリアの様に
知性と精神性が高度なレベルで調和した
世界最高峰の文明であった可能性は
既に色々なところで書いてきましたが、
これらの神道も源流に触れる事で、
新たな地平を見いだせると思っています。

私がこうやって色々と書けているのも、
才覚や知識量の問題ではなく、
実地で源流に触れているからであり、
その雰囲気から得られるものは
本から得られる知識を越えています。

アショーカ王の仏教はストア派のように
対話の中で真理を追及する学術的姿勢があり、
教祖様を立てる形態とは違うものなので、
現代のスピリチュアルや新興宗教とは
かなり質を異にしています。

中途半端に悟った気になっていれば、
ソクラテスに無知を知らされて
お山の大将でいられなくなるように、
対話で互いに磨き高め会う姿勢こそが
今後の宗教界で重要になると思っています。

密教的な分野は守秘義務があるので
対話が出来ない領域もあるでしょうが、
三遠の古代王朝にアショーカ王の仏教が
徐福により持ち込まれていたとすれば、
プライド保持のための誤魔化しが通用しない
知的水準が存在していた事でしょう。

大本教から派生した神道系新興宗教は、
神懸かって独立して教祖となり、
次々に分派を作るケースがあるそうで、
どれだけ本物なのかは定かではありませんが、
対話で粗が出てくるケースは多そうです。

全てが真っ当なら良いのですが、
危険な団体も実在するので、
真理のような事を語るからと言って、
本当に悟っているとも言い切れません。

アショーカ王のマウリア王朝では修行により
神々との交流がなされた事が記されており、
三遠もこのような水準であったのでしょう。

アショーカ王の仏教は世界に広まったとされ、
エジプトのアレクサンドリアにおいても
この痕跡が見受けられます。

日本にも当然その痕跡が存在していますが、
執筆し終わっていても出版はまだですね。

三遠こそが神道のメッカであり、
その深奥には既存の学説を越えたレベルが
横たわっていた可能性を明示してきましたが、
今後の日本が世界的な地位を確立するには、
この復興に多大な価値があると考えています。

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