志多羅を撃つ

平将門・藤原純友の乱の後に
志多羅神上洛事件がありましたが、
志多羅とは手拍子をうつ事で、
神宮の『建久年中行事』には
「志多羅を撃つ」と記されています。

民衆が手拍子を打って歌い舞い、
大勢で練り歩いた事件は
鎮花祭の系譜に位置付けられます。

神泉苑で行われた御霊会も
悪霊の災いを防ぐ祈願として
経を説き歌い舞うもので、
舞い踊りに呪術的な意味が
込められていたようです。

奥三河に設楽町がありますが、
花祭の舞いも呪術的な意味があり、
御神事であった事は本に書きました。

志多羅神が女に託宣して
「吾は早に石清水に参らん」
と石清水八幡宮に上洛した事件は
時代変革のための呪術的な意味が
込められていたのでしょうか。

この後に鎌倉幕府が開かれ、
武家政権に移行していく中で
神々のヒエラルキー変化し、
伊勢神道が隆盛します。

志多乱神は伊勢の神宮には
上洛しなかったものの、
後に伊勢踊りが流行りました。

伊勢踊りも掘り下げると色々あり、
別に書く必要がありますが、
この流れにええじゃないかがあるなら、
近代に至るまで一本の線で
結ばれる要素が見えてきますね。

ええじゃないかにも呪術的な意味が
込められていると仮定すれば、
予め喜ぶ事で慶事を現象化させる
予祝儀礼を集団で行ったのか、
農耕儀礼に通じる要素が存在した
可能性もありそうです。

この国の民衆には鬼道に付随する
呪術的な舞いの記憶があり、
社会変革のための御神事として
動乱期に噴出してくるのか、
未だに深層には邪馬台国の魂が
消えていないもかも知れません。

奥三河の花祭には源流に通じる舞が
継承されてきた事を本に書きましたが、
古代ヤマトの魂に触れるには、
この舞を習うと良いのでしょう。

花祭は愛知県のみでなく他の地域でも
行われていた痕跡を見つけているので、
奥三河のみに祭限定する必要はなく、
各地での復興がなされると面白そうです。

各界の有識者の方々が花祭を研究して
その価値を明確化して継承の流れを出し、
志多羅に通じる様々な動きの根源の舞で
新たな時代を呼び起こす動きを期待しています。

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