頼朝と伊勢参り

伊勢の神社への参拝者は数多く、
現代においてもこの流れは
継承されてきています。

元々は一般人の参拝は出来ず、
私の祈祷も不可能でしたが、
現代に繋がる流れを出したのは
源頼朝であったようで、
頼朝は神道界の改革者としても
位置付けられる存在ですね

伊勢神宮の神領(神戸・御厨)の地に
天照大神の分霊を迎え神明社を創建する事は、
『吾妻鏡』には文治二年(1186)に
鎌倉甘縄(あまなわ)の神明社が
源頼朝により修理され伊勢別宮とさたと
書き残されている辺りが始まりのようです。

頼朝は寿永二年(1183) 一月、
武蔵国の大河土御厨を外宮に寄進します。

頼朝の前から在地領主が所領を御厨として
神宮に寄進してきてはいましたが、

神威を幕らんがために傍例にまかせて永く寄進する所

と寄進状に記すのが普通であったのが、

今新たに公私の御祈禱のために

と頼朝が記した周辺から変革が始まります。

神宮が公的なものから民衆に解放されるのは
ここから始まったものとされており、
神宮が「私幣の禁」で個人的な祈願を
禁止してきた流れがあったところに、
公私の祈禱として個人的な祈禱を
公の祈祷と共に行う事を可能にします。

頼朝は同年五月に武蔵飯倉御厨を内宮に、
安房東条御厨を外宮に寄進しましたが、
「朝家安穏」「私願成就」と記しており、
それまで個人参拝ではなく公的な色彩が強い
閉鎖された伊勢の地を解放していきました。

神宮が経済基盤を鎌倉幕府に依存する事で
神道界の変革に関与してきた頼朝は、
外宮の伊勢神道を幕府のイデオロギーとし、
外宮主導で伊勢参りが広げられていきます。

頼朝は義経を討伐した事により悪評が立ち、
その功績については低く見られて来ましたが、
義経も上皇側の人間であった可能性が高く、
判官贔屓も意図的に流布されていそうです。

頼朝は豊橋の神社に神の使いである鬼の面を寄贈し、
鬼道に通じる伊勢神道を広めたのであれば、
彼の功績の再評価が必要となるのでしょう。

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