志多羅神上洛事件の六十八年前に、
京都の真言宗寺院である神泉苑で、
怨霊等の祟りを鎮めるために、
御霊会が行われたそうです。
この時代は疫病が流行して大勢が死亡し、
政治の陰謀のために死ぬ事となった
崇道天皇、伊予親王、橘逸勢などの
御霊を祀るようになったと言います。
御霊会とは民衆の間で夏から秋の
悪疫の流行を払うための祈祷とされ、
或いは仏を礼し、経を説き、
或いは歌い且つ舞うと言われますね。
これは鎮花(はなしずめ)祭の
系譜に連なるものとされており、
鎮花祭も歌って舞う事で災いを除き、
悪疫が流行しないようにします。
この祭は奈良の三輪山を祀る
大神(おおみわ)神社とその摂社で
四月十八日に行われたそうです。
元は朝廷の神祇官により行われた
国家的な祭祀とされていますが、
崇神天皇の御世に疫病が流行し、
三輪山の大物主を祀る事により
鎮静化したのが発端とされています。
大物主周辺の記述を探っていくと、
この時期に元伊勢の移動が始まるので、
伊勢の神宮が現在の地に移る原因に
鎮花祭が位置付けされる事になりますね。
三輪山の大物主に鎮花祭が関係するなら、
花祭は大物主祭祀にも関わり、
古代王朝祭祀として見過ごせない
重大な意義が存在していたのか、
関連情報は他にも見つけています。
大物主といえば古代ヤマトですね。
ここは書ける事が沢山ありますが、
諸般の事情により書くつもりはなく、
直接会った人には話してはしています。
古代ヤマト王権の祭祀により
政治的陰謀により死を遂げた霊を
供養するという流れについては、
橘逸勢も関わっていそうですね。
三遠には橘逸勢を祀る神社があり、
参拝に行った事がありますが、
古代王権との関係を邪推させる
十分な要素があります。
崇道天皇は大怨霊扱いされており、
彼の怨念が武士の世に移行させたと
伝承されている存在です。
一応、崇道天皇を祀る神社にも
参拝に行ってきたのですが、
現地で話を聞くとどこまでも哀れで、
怨霊として扱われるようになったもの、
裏には政治的策謀がありそうです。
彼を祀る神社は京都の鬼門に鎮座します。
昔の事で史料が不足してはいますが、
鬼門となると私の研究に関わります。
鬼と非業の死の鎮魂の祭に花が関わるのは、
先住民族の祭をもって鎮める意義が
含まれていたのでしょうか。