元緑十六年(1703)に出された町触には、
鍬神について記されています。
尾州牛頭天王の鍬神祭と称し、件之祭物、
去ル六七月中、中山道へ送出し、宿次送之、
頃日、上州高崎辺より送戻之由ニ候。
右の鍬神祭仕出し候輩、不依何者、
早速寺社奉行所へ可申出之候。
若し隠置き、他所より於相知候者可為曲事者也。
未八月 右之趣、町中不残、可相触候。
以上 岡田作左衛門どの
沢助左 西三郎兵
牛頭天王の鍬神祭と称する怪しい祭が
中山道沿いに宿場を移動して
江戸の手前の高崎で引き返したので
首謀者を調べさせたとされていますが、
御鍬神と牛頭天王の関係が指摘されています。
鍬神は外宮と伊雑宮の御師により
広められたとされていますが、
津島神社の御師も関係したようです。
『いせ参宮御蔭之日記』の文政十三年六月十二日に、
道者は人分多御座候。
是は津島祭りを兼候關東道者多く御座候
と伊勢参りの途上に津島行く船が
佐屋湊から出ていたようで、
この翌年の大保三年にも、
「おかけ参と唱中合津嶋え参詣」と
津島へのおかげ参りが流行したそうです。
高力種信氏の『御鍬祭図形略』には
二月頃より在々村々お鍬さまと伝ふ事時花る。
其始は勢州山山太神宮の御山に
鍬の形の榊の木出来(しゅったい)す。
是古より稀に有事にて、五穀成就、
豊年の吉瑞と中触れ村々より津島天王立苻をむかへ
祭ごとく面々是を迎へ祭る家毎にのぼり
一本づつを出し其身上に応じ
或は緋ぢりめん布木綿紙夫々に村中より出し
赤飯酒は他郷見物の者までも勝手次第に振舞
近辺の禰宜を頼み神楽杯にて来り者は
思ひ付の造り物出立花を飾り三百の豊年じやとはやす
と鍬神と津島天王立符が記されており、
伊勢と津島に関係があった事が記されますが、
牛頭天王と言えばスサノオが御祭神なので、
出雲神の祭として外宮や伊雑宮との関係が
存在した可能性はありそうです。
この周辺はどこまで書けるか分かりませんが、
既存の認識を覆すのに十分な内容です。
と言っても私の研究はほぼそんな感じですが。
幕末には西日本から大本教に連なる
出雲神を復活させる動きがありましたが、
東日本と西日本の中心のエリアでも
類似した動きが見受けられるのは何故でしょう。
西日本の神道系新興宗教は研究対象とされ
様々な文献なども出てきてはいますが、
ルーツとなるエリアでの動きに関しても、
同水準の研究がなされる必要があるでしょう。
津島神社は名古屋の西南の端にあり、
豊橋から伊勢への直進の海洋ルート以外で
海路・陸路の中間にあたる位置にあり、
三遠と伊勢との交流においても重要な
位置づけであったのかも知れません。