弓削王と猿丸大夫

天武天皇の第九(あるいは第六)皇子に
弓削王が存在したとされています。

『古今集』の「真名序」に猿丸太夫が登場し、
「大友黒主の歌は、古の猿丸大夫の次なり」と
六歌仙の大友黒主が猿丸大夫の流れをくむとします。

『本朝皇胤紹運録』は弘文天皇の末裔とし、
『古今集目録』は猿丸大夫の第三子とする等、
様々な説のある平安初期の歌人・大友黒住は、
陰陽師であったとする話すらあるそうです。

『古今集目録』の大友黒主伝に弓削王が登場し、

猿丸大夫第三子云々、或人云、
猿丸大夫者、弓削王異名云々。
弓削王歌、在猿丸大夫集云々

と弓削王を猿丸大夫の別名とした上で、
彼の歌が『猿丸大夫集』に載るとしますが、
鴨長明の『無名抄』は黒主は神となり、
近江国志賀郡に明神として祀られたします。

歌に関係する存在が神とされた伝承が
大友黒住と柿本人麻呂に存在するのは、
壬申の乱以前の祭祀と和歌との関係が
暗示されているのでしょうか。

『猿丸大夫集』は十一世紀末頃の成立と
見られているようなで後世のものですが、
人麻呂集からも歌が載せられいるものの、
殆どの歌の作者は後に取り上げられず、
皇族の歌は弓削皇子の三首しかありません。

弓削王の歌は万葉集に八首残され、
天武天皇の皇子の中では最多なので、
何らかの特殊な存在であったのでしょうか。

『扶桑隠逸伝』に記された弓削王の記述に、

或曰、聖徳太子之孫弓削王也世 知莫其然否

とあるものの聖徳太子の孫に弓削王はおらず、
この周辺の歴史的背景を探らなければ、
弓削王や和歌の理解は浅く終わりそうです。

聖徳太子の馬小屋で生まれる等の伝承は
イエスキリストがモチーフとなっており、
壬申の乱で先住民族を追いやった後に、
景教(ネストリウス派キリスト教)が
作り上げた存在であると考えています。

随書倭国伝の『日出処王子』の記述は
アマタリシヒコと呼ばれる男王の話なので、
先住民族の王の存在を抹消できず、
聖徳太子の存在を捏造する事により
対応しようとしたのでしょうか。

であれば弓削王は先住民族王権の皇子で、
天武天皇の子とされる事ともリンクします。

先住民族王権の皇子が猿丸大夫と呼ばれ、
人麻呂と同様の歌に関わる存在であれば、
彼を研究する事で古代祭祀の一端を
垣間見る事が出来そうです。

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