両統送立までの流れへの疑問

1285年11月に起こった霜月騒動が、
南北朝対立の原因となった、
大覚寺統と持明院統の二つから
交互に天皇を出す両統送立の
起点となったとされています。

1284年に権力者の北条時宗が亡くなり、
若き北条貞時が得宗を継いだことで、
権力バランスが崩壊する事により、
安達泰盛と平頼綱による権力闘争が
行われたと伝えられています。

この前に二度の元寇が起こされており、
文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)で
元寇に勝利しても土地が得られないので、
恩賞を与える事が出来ず経済的に疲弊し、
不満が蓄積されていったと言われています。

安達泰盛は若き北条時貞をサポートし、
幕府の組織改革を行う事によって、
北条得宗の専制政治に不満を持っていた
多くの御家人の支持を受けたとされます。

北条得宗にぶら下がる既得権益保持者の
中心人物とされる平頼綱がこれに対立し、
北条貞時に安達泰盛の息子が自分の先祖を
源頼朝の息子だったと語っており、
源氏の名の下に謀反を企んでいると告げます。

平頼綱は時貞に許可を得て安達泰盛を狙い、
争いは鎌倉一帯に拡大するも安達泰盛は敗北し、
一族みな自害したとも伝えられています。

ここから日本各地の安達泰盛と平頼綱の
二大派閥の御家人同士の争いが始まり、
北条得宗家に反対する勢力は一掃され、
平頼綱は権力を固めたとされます。

霜月に起こった事件なので霜月騒動と呼ばれ、
最高権力を持つ執権職に得宗家が世襲で就き、
北条得宗家の専制政治で幕府が支配された事を、
得宗専制(とくそうせんせい)政治と言います。

平頼綱は厳しい監視体制をしき、
悪口を言えば謀反として消される
権力の乱用を行ったそうです。

後に北条貞時が平頼綱の横暴に対し、
鎌倉が地震で大騒ぎになっている内に、
刺客を放って平頼綱を討ち取る事で、
北条得宗家による得宗専制政治が、
鎌倉幕府滅亡まで続いたとされます。

霜月騒動により得宗専制政治が始まり、
天皇の継承に口出しして両統送立を始め、
後醍醐天皇の倒幕に繋がるとされており、
ここが実質的な南朝の起点となります。

しかし今まで見てきた検討してきたように
鎌倉末期には疑問が数多く見受けられ、
打倒した側の後醍醐天皇は鎌倉武士を重用し、
幕府は元寇の後も権力を増大したとされます。

霜月騒動からの流れは後醍醐天皇が登場する
都合の悪い一連の経緯を隠すために
室町幕府により捏造された歴史であったか、
検討していこうと思っています。

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