承久の乱の後の流れ

後鳥羽上皇が鎌倉幕府に戦いを挑み、
隠岐に流されたとされる承久の乱の後、
六波羅探題を京都の監視として設置し、
幕府が朝廷を凌ぐ力を得たとされます。

鎌倉幕府は伊勢神道をイデオロギーとし、
天皇家が入ってくる前の邪馬台国の鬼道を
重視していた事は記事にしてきましたが、
先住民族の独立政権としての鎌倉幕府が
朝廷を凌いだらどうなるのでしょうか。

一般的には元寇により疲弊する事により、
後醍醐天皇に漬け込まれる事になったと
考えられて来たもの近年の研究によると、
元寇の後も統治を強めていっています。

承久の乱の後に元寇が起こっていますが、
天皇家を凌いだ後にも力を拡大できたなら、
考える事は先住民族の自治の復興でしょう。

後醍醐天皇は鎌倉幕府と親和性の高い
様々な政策を行ってはいますが、
幕府と同じ伊勢神道を重視しており、
先住民族王朝復興に立った王こそが、
後醍醐天皇であったのでしょうか。

鎌倉幕府内で権力を失った足利氏が
天皇家を担ぎ上げて反旗を翻し、
自ら幕府を開いて支配者となり、
権力の正統性のための歴史工作を
綿密に行った可能性があります。

万世一系の皇室を抱える事により
自らの権力の正統性を担保し、
優れた統治や文明を抹殺する事で、
統治の劣悪さを隠す事が出来ます。

百五十年を越える二勢力の戦いが、
後に天皇家のお家騒動として
歴史に取り込まれる事となったなら、
この時代にも大いなる歴史の断絶が
存在していた事になるのでしょう。

歴史から消された南朝の真実の姿が
いかなる物であったのかは、
これだけでは明確には出来ません。

これを知るには東三河に残された
南朝の痕跡を探る必要がありますが、
恐ろしい程に深い深層が存在し、
広大なスケールの輝かしい王朝の姿が
明確になってくる事でしょう。

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