愛知県豊川市御油町欠間の中西家に、
応永三十年(1423)と三十一年(1424)に
南朝忠臣・千種忠顕の子孫である
青木平馬が書き残した『青木文書』が
伝わってきたとされています。
青木文書には寛成親王(長慶院)が、
五井美吉原隠沢城口全柵の
天皇山明燈院(豊川市御油町西沢)で降誕、
六歳の時までここに住んでおられ、
明燈院の細川貞海和尚と共に吉野に上り
皇太子に就任されたと記されています。
明燈院は現在の御油神社の場所にあったとされ、
御油神社は文安元年(1444) 九月二十六日に
若一王子権現を祀ったのが始まりとされます。
和歌山の熊野神社摂社の諸王子の一位で、
十一面観音の垂迹で天照大神あるいは
瓊々杵尊と同一とされた若一王子が
長慶天皇の暗号であった可能性は、
なきにしもあらずと言った感じですね。
ここもメルマガ読者と行きましたが、
境内に青木神社が建てられています。
青木文書を書くために参拝しましたが、
この文書は取り扱い注意なシロモノで、
避けては通れないものの厳しいですね。
ここからが本格的な三河吉野朝の研究を
取り扱う段階に入る事になります。