三河の南朝は以前から議論されており、
様々なところに記録が残されてるので、
本来は目新しい説では無いのですが、
戦後に下火となった後は学会ですら
その存在すら取り上げない状況にあります。
検討した上で価値のない物として
敢えて取り上げていないのか否かでは、
その議論のレベルに差が出るので、
南朝研究者はこれらも知った上で、
研究を進めていくべき情報だと思います。
一応これらについて話をしておくと、
私はこれらも絶対視する立ち位置でなく、
全て間違いであるとも考えてはいませんが、
全てが正しいとも考えてはいないので、
両面検討が必要だと考えています。
石巻中学校の教師が郷土史料の収集をし、
子供たちと五年の歳月を費やし完成させた
『弓張風土記』にこの様な記述があります。
和田、長楽の地名と三河御所
54年度三年 花井沢実
三河には、「下佐脇の御所」「玉川御所」
「一の宮の尼御所」「三明寺の患木御所」
など十三ケ所ほどあり、
天皇や親王などが居られました。
そのうちの「玉川御所」には、
寛成親王(長慶天皇)と、
正良親王(松良天皇)とが
共に玉川宮と申されて、
「玉川御所」におられたと伝えられています。
和田には、「御所」「槎峨」「枇杷」
「広福」「出口」などの地名が現存しています。
当時これら一帯を御所といい、
御所の門のあったことを伝えて、
「出口」という地名になったといわれます。
字御所地内に、当時御所があり、
三河南朝の玉川宫が居られたことを伝え、
その奧の宇嵯峨地内には、嵯峨城跡があります。
字枇杷は、琵笆の故事を示す地名といわれて、
当時三河南朝玉川御所の姫宮が南朝再興を祈念し
玄象、下濃の名器で呪訴、王樹の曲を奏でた
琵琶のゆかりを伝えた地名であると伝えられています。
また、長楽に通称「おうじ」という所があります。
昔は王様の王と子供で王子と書きましたが、
現在は大判小判の大と大地の子で大地と書きます。
当時、長慶天皇に仕えた彦坂平内兵衛や、
彦坂左内などが長慶応天皇の皇子を護り、
また、皇子すなわち(玉川宮正良親王)が、
戦乱から一時身をかくされた所と伝えられています。
玉川の地名と伝説
54年度二年 及部晴代
南朝史学者藤原丸山著の『南朝止統皇位継承論』に
寛成親王(長慶大皇)と
正良親王(内伝の天皇で松良天皇)は、
共に玉川宮と申されて三河玉川御所に
おられたことを示しています。
和田地内には、御所・嵯峨・枇杷・広福・
出口などの地名が現存しています。
当時これらの一帯を御所といい、
御所の門のあったことを伝えて
出口という地名になったと思われる。
『青木文献』の五川村は現在石巻本町といい、
字御所ことを伝え、
その奥の宇嵯峨地内には嵯峨城跡があります。
そこに春興殿があったと思われ、
嵯蛾大覚寺殿の皇王という意か
後酲醐天皇の猶子となられた、
守永親王(尊良親王の皇嫡子)が居られたことを伝え、
後世、そこへ建てたお寺が春興殿のゆかりを伝えて
春興院と号したと思われる。
字広福の地内には、当時、興福殿があったと思われ
長慶天皇(玉川宮寛成親王)の皇女綾姫(綾子内親王)が
王子の空因親王と共に住まれたとき、広福殿といい、
その後、広福殿の跡へ寺を建てて広福寺と号し、
その寺跡の辺りを広福といい、
小倉橋は小倉宮のゆかりを伝えていると思われる。
字枇杷は、琵琶の故事を示す地名と思われ、
当時、三河南朝玉川御所の姫宮が南朝再興を祈念し、
玄象、下濃(すそご)の名器で、
呪訴、玉樹の曲を矣でた琵琶のゆかりを伝えた
地名であると思われる。
御所とは、内裡、禁裡、禁廷、鳳囀などのことで、
天皇の御座所をいい、
また、主上、上皇、三后などの御座所も御所といいまして
鎌倉時代ごろから親王、将軍、公家などの居られた所も御所といい、
そこに住まれた高貴な方を御所様というようになりました。
『弓張風土記』は地元の様々な伝承を
書き残して集めた資料ですが、
郷土意識は地域社会の連帯の上に、
意図的に育てるべきものとする意図で
編纂された書とされています。
地元に残された伝承を大切に扱う事は、
以前の教育界では確りと為されていたのに、
現在では弱くなっている感じがします。
昭和の頃にこのような事業をなしたのは、
江戸の教育の流れがまだ残っていたからか、
古き良き昔の気風を感じさせる部分があり、
教育界の変化を感じさせますね。
子供の頃に身近な伝承に関心を持つと
学問に対する姿勢に影響するので、
親も教師も子供の育成のために、
こう言う話を伝える事の価値を
見直してみても良さそうです。
大学の時に教職課程に潜り込みましたが、
粘れば取れる車の免許程度だったので、
江戸時代の四書五経のような現場で役立つ
一流の人材育成のカリキュラムとしては、
かなり弱い感じを受けました。
寺子屋では教師の人格が信頼置けるかが、
子供を預ける時に重視されたそうですが、
風土記を作る姿勢は良い感じを受けますね。
教育の本質すら考えさせるものがあり、
教育を通じてどの様な人の育成をするか、
根本から違っている感じを受けますが、
私の歴史研究もそう言った部分への
見直しにも寄与できればと思っています。