平安末期に記された『長寛寛文』(1164)に載る
「熊野権現御垂迹縁起」の熊野三所権現は記述は、
むかし甲寅の歳、唐の天台山の王子・信が
高さ三尺六寸の八角形の水精の石となり、
日本は鎮西の日子の峰(九州の英彦山)に降り、
五年後に伊予国石鎚峰(四国の石鎚山)に渡り、
次いで六年後に淡路国の遊鶴羽山に、
また六年後の庚午の歳に紀伊国牟婁郡切部山の
西の海にある玉那木の淵の松の木に渡り、
それから五十七年たった庚寅の歳に
新宮の南・高蔵峰(高倉山)に降り給うた。
次に六十一年たった庚午歳、
新宮東の阿須賀社の北の石淵谷に勧請された。
これが結速玉家津御子と申す二宇社である。
と海外から渡来してきた神である事を伝えますが、
唐天竺(インド)から渡来して各地を渡り歩くのは、
インドから薬師如来像をもちこんだ徐福が
熊野三所権現のモチーフに関係していそうですね。
八角の水精は鬼道に関わる八なのか、
どこまで信頼おけるのかは分かりませんが、
元ネタとしているものに何かありそうです。
これは英彦山が熊野より古い事を明示して
独立するために記されたと言われる事もあり、
花祭の本には色々と書いておきました。
当時のインド仏教は大乗仏教よりも前の
アショーカ王が保護した説一切有部で、
大乗仏教をフロイト派とすると、
こちらはユング派に近いものがあります。
ユングはタロット、占星術、易経などを研究し、
深層心理にある原型の概念を確立しましたが、
徐福に連なる熊野信仰は哲学的であり、
想像以上に奥が深そうな気配があります。
最後に記された阿須加社には徐福伝承があり、
熊野と徐福が密接に関係していた可能性は、
非常に高かったであろうと思われます。
となると阿須加や飛鳥はアショーカ王に由来し、
アスカのイメージを根本から見直さないと、
この時代のレベルを読み誤るのでしょうか。
秦は元は中国の西端の小国であったので、
徐福とインドとの関係は深そうですが、
熊野権現と徐福の関係を追及していく事は、
今後の熊野信仰にも多大な影響があるでしょう。