熊野速玉大社の飛地境内摂社である神倉神社は、
千穂ヶ峯の東南端の神倉山の山上に鎮座し、
巨大なイワクラを祀る縄文祭祀に関わります。
麓に猿田彦神社と神倉三宝荒神社がありますが、
神倉三宝荒神社は昭和56年に建てられたそうで、
御祭神は火産霊神・誉田別命とされますね。
役小角の感得した三宝荒神が熊野に関わるのは
何かしらの意味がないかと探ってみましたが、
時期的に全く関係がなさそうではあります。
疑問なのが荒神なのに御祭神が関係ない事で、
誉田別命と言えば応神天皇なので八幡です。
神社の御祭神を取り違えるのは力技で、
そうそう無い事だとは思われますが、
隠された領域があるかも知れませんね。
この神倉神社に上って参拝してきましたが、
昔の人はよくもあんな場所に石を背負って
高い石段を作ったものだと感心します。
奥の権現山にも上ろうと思ったのですが、
余りにも急で登山道と呼べるものでなく、
ダジャレと同じく滑ったら命に関わり、
時間もなく途中で見切りを付けてきました。
権現は神仏習合から来た名称とされますが、
それより前に役小角が蔵王権現を感得し、
壬申の乱の頃から権現は使われているので、
修験に関わる可能性が濃厚ではあります。
付近の阿須加神社にも徐福渡来伝承があり、
徐福がアショーカ王の仏教を持ち込み、
この段階で神仏習合がなされていたなら、
大乗仏教以前の神仏の在り方の痕跡が、
この山にも残されているのでしょうか。
神倉神社も源頼朝が関与していますが、
頼朝は古代王朝祭祀の復興をしているので、
ここの隠された歴史についても詳しく、
熊野の深層にアクセスしていたのであれば、
この流れを汲む後醍醐天皇と熊野の関係も、
深層部分において成されていたのでしょう。
ここは熊野の根幹に関わる聖地なので、
頼朝はかなりのキレモノであったのか、
天海僧正のようなブレーンがいたのかは
定かではないにせよ評価が低すぎるのは、
義経に絡めたマイナスイメージの流布が
上皇側からなされたからでしょうか。
頼朝の功績が大々的に流布されていれば
先住民族王朝の痕跡に目が行くので、
精神性が高く神仏に優れた功績があったと
認知される事は避けたかったのかも知れません。