白河上皇は熊野詣でをしましたが、
比叡山延暦寺や奈良の興福寺等で、
僧兵達が武力に頼った強引な要求を
横行させていた時代背景を見ると、
色々な事を考えさせられます。
これに対抗する武力を求めた事から、
平清盛に続く伊勢平氏の台頭に繋がり、
武家政権への流れが出てきているので、
熊野参詣も軍事的な交渉だったのか、
パワーバランスの変化の時期ですね。
純粋な信仰目的であったと考えるには
何かと難しい問題がありそうですが、
呪術が盛んであったこの時代に、
地方の一霊山であった熊野にまで
直接出向いた意味は大きいでしょう。
白河上皇は藤原氏が天皇の外祖父となり、
政治を裏で操っていた流れを絶ちきった
後三条天皇の子とされているので、
様々な変革を模索してた時期ですね。
これが一回ならともかく九回にも渡り、
源平合戦に関わる後白河上皇になると
三十四回も熊野詣でをしているので、
院政と熊野には関係がありそうです。
1086年に白河上皇となる前の記述をみると、
『扶桑略記』永保二年(1082)十月十七日条に
十七日甲子。熊野山犯来大衆三百余人。
荷負新宮那智御躰御輿。来集粟田山。
暫安御輿於其山口。大衆参入公門。
訴尾張国館人殺大衆等之状也。
と大衆三百人が新宮・那智の神輿を背負い
粟田山に来集した事が記されており、
那智が史料に初めて登場する記述が
大勢で神輿を担いで参詣する話なのは、
志多羅神上洛事件を連想させます。
熊野の深層にも卑弥呼の鬼道が
存在していた可能性があるなら、
時代の節目に類似事象があっても
特別おかしくはないですね。
白河上皇は熊野のシステムにテコ入れし、
円珍と熊野との関係にも関与しているので、
この時代の熊野にも志多羅神に通じる
変革の動きが存在していたのでしょうか。