天皇で最初に熊野参詣したとされる
宇多天皇について調べてみると、
かなり興味深い事が分かります。
一度は皇族から源氏に身分を落とされ、
再び皇族に復帰し即位した天皇とされ、
経歴にも特殊なものがありますね。
宇多天皇は左大臣であった
橘広相(ひろみ)に命じて
藤原基経に勅書を送ると、
地位が高いが職務のない任に
着かせられると腹をたてられ、
宇多天皇は勅書を取り消し
橘広相を解官したそうです。
藤原基経の死後に醍醐天皇に譲位し、
藤原保則や菅原道真を大臣に登用して
「延喜の治」と呼ばれた善政で
後の世にまで有名となるのですが、
問題はその後の話になります。
東寺で受戒し密教僧となった後に
比叡山・高野山・熊野三山を巡り、
道真への援助が希薄になっていき、
藤輪保則による大宰府への左遷に
繋っていく事になった様ですね。
菅原道真が日本史に及ぼした影響は、
平将門の乱や志多羅神事件を見れば、
計り知れない物があった事が分かります。
道真をしたと左遷した醍醐天皇にあやかり
自らに後醍醐の諡号をつけたとするのも、
何かしら考えさせられる物がありますが、
時代の節目で上皇が熊野参詣をしたのは、
ほぼ全般に見られる特徴のようです。
大宰府は筑紫都督府と呼ばれており、
唐の植民地管理施設が都督府なので、
大宰府への左遷と死の伝承には、
隠された歴史がありそうです。
壬申の乱以降で唐の関与があり、
その関係性が変化した時期での
熊野参詣であったのならば、
政治的背景を探る必要があり、
信仰一色ではなかったでしょう。