後白河上皇は異常な数の熊野参詣をし、
後鳥羽上皇の二十八回がこれに続きますが、
後嵯峨上皇は二回、亀山上皇は一回のみで、
後鳥羽上皇以降の数の激減が目立ちます。
亀山天皇の在位は1260年1月9日から
1274年3月6日とされていますが、
後醍醐天皇の建武の新政が1333年で、
朝廷が鎌倉幕府と戦い負けた後に、
熊野参詣に影響が出た事が分かります。
朝廷を凌いだ幕府が南朝を樹立した説を
一応は裏付けるデータになりますね。
鎌倉幕府の熊野への関与を調べると、
源頼朝の神倉神社の例に見られる様に
初期からの繋がりが存在しており、
白河上皇が変質させた熊野信仰を
南朝が復興させた可能性は高いでしょう。
白河上皇が熊野信仰に関与する事で、
ゾロアスター教や景教に関わり、
アショーカ王の仏教と敵対する、
大乗仏教系に塗り替えられています。
となると南朝の復興した熊野修験は、
ギリシャ哲学風のロゴスに基づく、
錬金術的な深層心理の探求に近い
高度な水準にあった可能性も、
相応の度合いに上りそうですね。
そして同時に熊野のダキニ天信仰も、
本来の姿を取り戻した形での
信仰がなされていたのであれば、
真言立川流が悪く言われる以前の
ダキニ修法も存在したのでしょう。
後醍醐天皇が徐福王朝の復興を目論んだなら、
秦帝国と同様に後に焚書がなされる事で、
その優れた叡智も消されたのでしょうか。