後醍醐天皇と竹内文書

津島神社に参拝に行った時に、
武内宿禰と南朝臣下が共に祀られ
驚いた事がありましたが、
神社の説明にはこうあります。

弥五郎殿社
御祭神 大己貴命 武内宿禰公

御祭神武内宿禰公の末裔堀田弥五郎正泰が
正平元年(西暦1346年)
造替した縁故を以て社名としたと伝える。
堀田弥五郎は南朝方の忠臣で正平3年
楠正行公に従い四条畷に於いて戦死した勇将である。
正泰公が当社の宝物として寄進した
伯耆国の名工大原真守作の太刀は
現在神社に持伝え重要文化財に指定され、
なお社前の石灯篭は津島市文化財に指定されている。

神社の由緒書きを見ると後醍醐天皇が
竹内宿禰と縁があった事が分かります。

竹内宿禰は数代に渡り天皇に仕え、
神仙であったとも役職名であったとも
伝えられている伝説的な存在です。

大己貴命(おおなむちのみこと)は
大国主命の別名とされていますが、
出雲系の神と竹内宿禰が一緒に祀られ、
系統が違うのが気になりますね。

武内宿禰は弥五郎ら堀田一族の始祖とされ、
津島の名家の一つである堀田氏は、
江戸幕府で大老や老中等に就いています。

津島は織田信長とも縁が深いのですが、
信長が忌部氏で南朝サイドであった事も、
色々と関係していそうな雰囲気がしますね。

南朝の要職に就いていた弥五郎が
竹内宿禰を祖とするのであれば、
竹内文献の存在が後醍醐天皇の耳に
入っていた可能性は無いでしょうか。

竹内文献は古代天皇が飛行船に乗り
世界を統治していたとする壮大な物語で、
少なくとも二系統の竹内文書の存在が
提唱されてきてはいます。

南朝の天皇の末裔を自称した偽天皇問題で、
竹内文献の記述を根拠に天皇の起源を
超太古にまで遡らせる動きがありましたが、
天皇の権威を高め正統性を主張するのに
十分なケレン味がある内容なのは確かです。

北畠親房が『神皇正統記』を書いて、
これを根拠に天皇の正統性を主張したと
一般的な歴史で語られていますが、
この内容は日本書紀に類似しています。

楠木と言えば南朝の軍事で功績をあげ、
天皇のために忠義を尽くしてきましたが、
ここに竹内宿禰の子孫が関わるなら、
士気向上のために竹内文献が用いられても
全く不思議ではありません。

竹内文献周辺には様々な議論が存在しますが、
南朝がダミーの歴史を用意した可能性や、
南朝の価値を落とすための偽書の捏造など、
様々な側面からの検討が必要になるでしょう。

枝分かれしたり政治的関与があったりと、
長い歴史の中で様々な事がありそうですが、
三河吉野朝の研究者から言わせると、
吉野の南朝はダミーで本流が東三河にあり、
偽南朝の竹内文書なら信憑性は薄いですね。

竹内文献には膨大な情報量があるので、
偽書でも元ネタは存在していそうです。

南朝における歴史観を探っていくと、
竹内文献以外にも様々な歴史書があり、
南朝のイメージが大幅に変わります。

古代世界を統治していた天皇の姿を
復興させようとしたのが後醍醐天皇なら、
その王朝は恐ろしい程のスケールを持つ
神聖王朝として君臨していたのでしょうか。

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