伊賀国の兼好伝

江戸時代は吉田兼好の研究が盛んで、
『園太歴』に記された記述から、
兼好について様々に語られました。

しかし後にこれが偽物として扱われ、
現代では歌人程度のイメージでしか
扱われない人物となっています。

『園太暦』偽文は『伊賀国名所記』の
兼好伝説をベースに成立しています。

吉田兼好が伊賀と関係した事は
近代では余り知られていませんが、
伊賀における兼好伝の信憑性が
根本的に問われる事になりますね。

伊賀上野の文士であった菊岡如幻は、
織田信長の伊賀征伐にり荒廃した
社殿仏閣が多かった事から、
延宝七年(1679)に伊賀の名所旧跡を
『伊水温故』四巻に記したそうです。

この中の「種生村」の項の記事には、

兼好塚
太暦十八二日、兼好法師、父ト部兼顕、
始之名者左兵衛兼行、又改兼好。
後為後宇多院之北面。
多病而好仏故、不継家。
剃髪以後、以兼好為法名。
住吉田山。好尋所々名跡。
伊賀ノ守橘成忠、与兼好交好。
依成忠、趣伊賀国、
結菴于国見山ノ麓田井ノ庄。
成忠ノ娘十七八歳、通ト兼好数年也。
しのぶ山またことかたの道もがなふりぬる跡は人もこそしれ
此歌は彼女ニ通時之歌也。好色ノ法師也。
又能和歌、伊勢正禰宜従四位上常直、
毎月通此菴、習歌林深旨後旨。
後、貞治元年五月廿三日病死ス。
歲六十三、葬于国見山麓云々。
(延宝七年識語・神宮文庫本)

と吉田兼好が吉田神社の吉田山に住み、
伊賀の娘のところに通った事が記され、
現代の兼好のイメージを塗り替えるだけの
インパクトのある情報になっています。

国会本『伊賀国名所記』巻末の兼好の記述は、
伊賀守橘成忠や伊勢正禰宜従四位上常直が
他で確認できない事から後世の加書として
捏造された文書として扱われます。

しかし、これは近年の研究により
疑問が提唱されてきました。

『伊賀政事録』(貞享元年奥書)や、
江戸前期成立の伊賀国地誌類の中に
成忠の名が何度も登場しており、
伊賀では郷土の英傑とされています。

伊賀の兼好草庵に歌道の修練に
訪れていたと記述されている
伊勢正禰宜従四位上常直も、
『度会氏系図』(1329年)にある
伊勢外宮禰宜に常直の名があります。

『伊水温故』成立以前に双方の名が
確認がされた事から全否定は難しく、
江戸の研究が見直されても良いのに、
勢いが消えたままの状態ですね。

伊賀の地は山奥にありますが、
ここから少し西にいくと、
なんとあの笠置寺があります。

兼好は女絡みで全国行脚したとされますが、
兼好が伊賀との関わりを持っていたなら、
笠置山の南朝に通じたスパイとして
実相を隠していたのかも知れません。

まあ伊賀と言えば忍者のイメージなので、
南北朝の動乱の時期に活躍した妄想は
中二心をくすぐるものがありますが、
案外掘り下げると色々と出てきそうです。

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