三遠の歴史について書いてきましたが、
この西端にある御津(みと)神社は、
御津郷十二ケ村(のちに十八ケ村)の
総氏神として崇敬されてきたそうです。

御津神社の創建は西暦以前に遡るとされ、
古過ぎて記録がないため不詳とされますが
天武天皇の御代(672年〜686年)に
官社となったと伝えられています。
天武天皇と言えば国内を二分する壬申の乱で、
ヤマトが歴史から消される時代の人物です。
大国主命は出雲の国から船に乗って
伊勢湾を渡って当地に及んだと伝承され、
地元の漁師が採れたイカを献上したので
例祭で神前にイカを供えているそうですが、
出雲との関係があるのは興味深いですね。
御津町は八代天皇の孝元天皇(B.C.200年)が、
当国の行幸の時に御船を此の津に寄せたので
御津湊と呼ばれたと『惣国風土記』にあり、
この時期は徐福渡来と重なっています。
徐福がここから上陸したのであれば、
ここで語られる出雲から来た大国主は、
表だって徐福と言えない状況下において、
苦肉の策で残された伝承なのでしょうか。
現在考えられているより遥かに価値の高い
地域振興に用いるに十分に値する
聖地の一つとして挙げられる神社ですが、
ここで言いたい事はそれとは違います。
この神社は南朝側についていた事が知られ、
東三河の長慶天皇御陵墓の近くにあります。

南朝が徐福王朝の復興をなしたであれば、
南朝と徐福の関係を探っていく事により、
知られざる南朝の姿が浮かび上がってきます。
『東三河の徐福伝承』を読んだ方なら
理解出来るのではないかと思いますが、
南朝が徐福を深く理解をしていれば、
その王朝のレベルは想像を越えており、
三河吉野朝が歴史から消された理由として
十二分の物がある事が推理できるでしょう。
御津神社の大国主伝承は南北朝以降に
語られ始めた可能性もありそうですね。
豊川市は徐福が拠を構えた地として
重要な痕跡が複数残されていますが、
これは南朝において決定的に重要な
神聖王権の根拠となるものです。
全国区で話題が盛り上がってくれば、
地元でも地域振興で大事にする動きが
出てこないかと期待して書いていますは、
やはり情報の拡散度合いに依拠しますね。