出雲国造職の相続の儀・火継(ひつぎ)は、
神火相続式とも呼ばれる火の儀式です。
前の国造が帰幽(死去)した際、
新たな国造は喪に服す間もなく
社内の斎館に籠もって潔斎した後、
燧臼(ひきりうす)・燧杵(ひきりきね)を携え、
熊野大社の鑽火殿でこれらを用いて火を起こし、
神火で調理された食事を神前に供えつつ食します。
この後に神魂神社で饗宴を受け、
出雲大社に戻り奉告の儀式を行うのが、
火継式の一連の流れとされています。
この儀式にて鑽り出された神火は、
国造館の斎火殿で保存され、
国造は在任中この火で調理した物を食べ、
国造以外は口に出来ないと言います。
火継式の「火」は「霊(ひ)」であり、
神火で調理されたものを食べることにより、
天穂日命以来の代々の国造の霊魂を
自らの中に取り込み現人神となり、
霊力を持った存在として扱われた事が、
『譚海』に記されています。
出雲の国造は其(その)国人
尊敬する事神霊の如し。
氷(ひ)の川上と云ふに別社ありて、
神事に国造の館より出向ふ時、
其際の道筋へ悉く藁を地に敷みちて、
土民左右の地にふし、
手に此(この)藁を握りて俯しをる。
国造藁を踏んで行過る足を引ざる内に、
みなみな藁をひき取り家に持帰り、
神符の如く収め置なり
後醍醐天皇をはじめとした南朝の天皇が
出雲と繋がりを持っていたとすれば、
密教と深く関わった後醍醐天皇は、
火継の儀式をどう扱ったのでしょう。
大嘗祭も火継に類似した儀式なので、
南朝天皇も出雲国造と類似した扱いが
民によりなされていた可能性があります。
少なくとも天皇の扱いは現代とは違い、
霊力やカリスマ性を持つ神聖な王として
南朝の様々な武将が命をかけたのも、
この儀式による神の力と関係した事も
除外できない要素であったのでしょう。
火継の儀式が古代の三遠に由来すると
書きたいところではあるのですが、
余り突っ込まない様にしておきます。
豊川市御油町の地名は天皇崩御に伴い、
火を絶やさないよう油を注ぎ続けた事に
由来するものと伝えられていますが、
後醍醐天皇と出雲大社の関係が深いなら、
火継の儀式が行われた事実が隠されたと
妄想すると楽しそうではありますね。
私がブログに書いている事も、
研究した内容の全てではなく、
既存の研究資料にも様々な事が
書き残されて来ています。
他にも研究者はいらっしゃるので、
独占状態にしたい訳でもなく、
良い形での流れが出るのであれば、
研究が盛んになって欲しいですね。
仮説としてなら宣伝してみるのも
地域振興として悪い事ではなく、
研究の流れに繋がっていければ、
私の説に色々な粗が見つかっても、
新たな事実が浮かび上がると思います。