『青木文献』は正平二十三年(1368)三月、
後村上帝崩御の後に即位した長慶天皇が
吉野から三州御所宮に移住して法王となり、
明燈院(豊川市御油町)から
望理原(豊川市小田淵町)と呼ばれる
錦門御堂(王田殿)に移られ、
天授五年(1379)九月二十日に
崩御されたとする記録を残します。
青木文献の信憑性に関しては
100%ではないと考えていますが、
事実か否かの検討を行っていけば、
研究が進むのは確かですね。
王田殿が望理原にあったとしますが、
望理の地には望理神社が鎮座し、
周辺も見るべき物が色々あるので
メルマガ読者と参拝に行くと、
面白いものが見つかりました。
神社裏に神武天皇逢拝所や多賀大神、
伊雑皇大神宮などと書かれており、
凄い神々のオンパレードですね。
伊雑社は江戸時代に御鍬信仰が流行り
御鍬社として広まってはいますが、
伊雑皇大神宮として記されるのは、
本場より格上の表現にも感じられます。
伊雑宮は「ええじゃないか」の発端に
密接に関わる神社でもあるので、
三河発祥の原因には更なる領域が
横たわっているかも知れません。
元伊勢は広く知られてはいますが、
元伊雑宮も存在したのでしょうか。
神武天皇は奈良のそれではなく、
神武天皇のモデルとなった徐福が
豊川市で王朝を作っていた事に
由来していそうな雰囲気ですね。
多賀はイザナギを祀る地ですが、
なんと三河吉野朝の研究において
豊川に多賀の地が存在しており、
後村上天皇とも関係しています。
東三河に存在した南朝の信仰は、
日本の神々で頂点クラスとされるより
更に上の領域に関わっていたなら、
日本最高の聖地として位置付けられ、
それ故に徐福がこの地に王朝を作り、
南朝が復興した可能性は高いでしょう。
まあ本当にヤバいのはここからですが、
やはり諸般の事情により難しいので、
真っ当に運営がなされる見通しが
立った上での情報提示になりそうです。