望理の地と大田殿

『三河吉野朝の研究』は私が見ても
若干間違っている部分がありますが、
私は独特なラインで徐福研究をし、
その上で分析しているので、
ここは当時の状況下においては、
かなり難しい所だと思います。

望理について記された箇所には、
大田殿についての記述があります。

王田殿の推定地と日落 寶飯郡國府町森在
 
望理神社の鎭座地、中森には
千種文献所載の王田殿の
所在地ならんと推臆し奉まつる。
印邊、日落、行歷の地名稱あり。
右文献中、長慶院法皇
王田殿に崩御とあるは此地なるべし。
日落とは御誕生地日向と對照して
崩御の象を意味す。
其傍に行歷と稱する地あり、
御供養の寺院行歴寺の
所在地ならんと推臆す。
印邊は長座院の
御黑戶の御在しませし處、
現今殘る卍山長慶院の國寶は
此處に存在せしを
移遷せられたるなりと世に傅へらる。
此の邊ー帶仙洞の御所に
方十二町斗り隔りたる所にして、
其前方に望理神社あり、
三直線上にありて三星形となる。

長慶天皇崩御の地とされる大田殿は、
先人の研究が既に存在しているので、
余り出しゃばる必要はありませんね。

まあ望理の里の周辺には、
御所に纏わる施設が集まり、
今では見る影もない程に
徹底的な破壊が行われ、
神社に痕跡を残すのみと
なっているのでしょう。

このエリアの地域振興では、
南朝の王都があったイメージと、
見渡す限り田んぼのイメージでは、
全く違った内容になるのは、
間違いない事ではあります。

更に徐福王朝が存在したなら、
多分野における基礎研究が
確立される度合いに従い、
今後の日本をリードする
重要な都市となる事すらも
あり得るのではないでしょうか。

遷都と言えば京都や岡山などが
盛んに取り上げられていますが、
三遠は聞いたことがありません。

古代ヤマトの中枢がここにあり、
南朝においても首都とされたなら、
オプションの一つとして、
考えるに値するものでしょう。

南朝では政祭一致であったので、
重要な聖地も集合していますが、
天地の御恩に感謝しつつ、
協力して輝ける世を作る思想の
価値自体は高いと思っています。

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