望理の地と長慶天皇

豊川市に長慶天皇の墓と伝承される
古墳が存在していましたが、
この地に南朝が存在していた事は、
ある程度の認知が存在していました。

東三河地方の有志の人々によって
昭和19年に国府町望里の地に建てられた
長慶天皇御聖蹟伝説地の標柱は、
同年に京都市右京区嵯蛾角倉町にある
嵯峨東陵が長慶天皇墓とされた後、
警察の命令で倒され活動も消沈します。

山口保吉氏の著作である
『三河吉野朝の研究』には、
望理についてこう記します。

望理鄕とは御馬、下佐脇、新田、
爲當、上佐脇、小田淵、
森の地を稱して望王里郷と稱す。
此地卍山下を望見し得る絕好の地にして
御所の所在地に當る御津山より
南に見ゆる地點を下望理と稱し、
川下なるを以て望理下とも稱せり。
望理下には熊野大神を祀る。
現今の森の地は中望理と稱す
望理神社の所在地なり。
右神社は望理鄉中の
鄉社にして相當の大社なり、
御祭神は大明神と稱すれども
長慶院法皇即ち大寶天皇を
祭祀し奉まつれり。
右神社の鎮座地より
北方二十町を隔てゝ天皇山の御陵あり、
同社の西方二十町隔りて縣社御津神社あり、
更に東方二十町隔りて村上神社あり
總ての諸點を粽合して大寶天皇の御神靈を
齋き祀れる神社なりと推脇し奉まつるものなり

この熊野大神は徐福由来の
可能性が高そうですが、
牛川熊野神社以外にも
徐福に絡んだ熊野神社が
東三河あるかも知れません。

天皇山は長慶天皇の墓とされますが、
京都の墓は仮に特定されただけなので、
これだけで破壊されたのは残念ですね。

三河吉野朝の研究においては、
ここに見られる大宝天皇を
長慶天皇とする説と、
別とする説が存在しており、
どこまで信憑性がるかは
明確でない部分があります。

大宝天皇は南朝の謎を解くために、
ある部分に関わって来ますが、
この天皇の名は聞いた事がありません。

名前を聞かないからと言って、
実在していなかったかと言えば、
存在を思わせる痕跡も残されています。

根拠が明確でない情報が多いので、
あくまでソースの一つとして
情報を提供する形になりますが、
研究の補助になる事を期待します。

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