豊川稲荷創建の謎

豊川稲荷は嘉吉元年(1441)に
東海義易(ぎえい)禅師の協力で、
今川氏が建立したとされています

禅師は今川氏と縁戚関係にあるとされ、
徹頭徹尾、今川氏が創始に関わった事と
されているのは事実なのでしょうか。

南北朝の動乱の後に遠江(浜名湖)の今川氏が
東三河一帯の支配者となった経緯とされており、
南北朝の対立感情を緩和するための宗教的政策、
又は今川家が南朝を徹底的に壊滅させた事への
償いの意味もあると考えられている様です。

豊川稲荷には様々な謎が存在しており、
稲荷と言いつつ他の稲荷で祀られない
ダキニ天で有名な寺院ではある上に、
ここにしか見えない参道の構造をし、
このダキニ天も東海義易が持ち込んだ
天部とされている事は有名な話です。

ダキニは後醍醐天皇が信仰した女尊ですが、
東海義易は同じく後醍醐天皇が信仰した
聖天(ガネーシャ)にも関わっており、
聖天を祀る歓喜院の住職となりますが、
これも同じく東三河にある寺院です。

この歓喜院は聖徳太子の時代に
創建されたと伝えられており、
壬申の乱以前から存在した
密教寺院と言う事になりますね。

実地調査をしていた時にやけに気になり、
東海義易が聖天を祀ったのを知らず、
何度も参拝をしてた寺院がありますが、
南朝について書こうと思い連絡に行った時、
丁度中まで入れるように開いていました。

参拝した時の感覚ではインドのガネーシャより
遥かに厳格な雰囲気を感じさせるものがあり、
後醍醐天皇でよく言われる怪しげな性的儀礼の
淫靡な雰囲気は感じられませんでした。

勝手に色々書いて迷惑をかける訳にもいかず、
書き始める前に話しに行っているのですが、
参拝に行った後に色々な発見がある場合は、
O.K.サインだと思って書き初めています。

聖天について色々と書いているのも
参拝した時の感覚に依ったものが多く、
私の頭の出来とは余り相関しないので、
神仏を扱うには要人のように礼儀を通し、
体良く利用する形とならないように
十分注意する必要がありそうですね。

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コメント

  1. fugenfumyo より:

    稲荷の祖は豊受であると空海がいっていたような?
    稲荷には豊が良くつきます
    天照大神が天皇の枕元に立って
    私の御饌の神を置きなさいとのご神託で
    豊受が伊勢の横に建立か?

    天照大神が太陽神なら
    豊受は農耕の星、月
    農耕は稲荷

    天照が卑弥呼、日女子なら
    卑弥呼が可愛がったといわれる息子の嫁が
    イヨ(トヨ)(豊)は月?
    漠然とした話でした

    • Katsuyoshi より:

      豊受大神に関しては『ええじゃないか』や過去ログで色々書いたので、読んでみて下さい。
      稲荷は一系統ではないので、根幹のダキニ・稲荷を明確にする事が重要だと考えています。