豊川稲荷が現在の地に移されたのでなく、
始めから現在地にあったとするのが
私の研究による結論ではありますが、
根拠は幾つか存在しています。
根拠の一つが豊川稲荷の位置関係であり、
進雄神社と三明寺を含めた三角形の重心に、
御神像が祀られていたようです。
この石像は火事になっても焼失を免れ、
現在でも安置はされているようですが、
関係者に迷惑になるといけないので、
場所を明記する事はできません。
もし御自身で探そうと思うのであれば、
関係者に礼儀を通す事は必須であり、
くれぐれも不可思議な儀式をしたり、
怪しげな行為等は控えて下さい。
進雄神社は明治以前は豊川牛頭天皇と呼ばれ、
牛頭天王といえば津島神社と関係し、
牛の頭が鬼の角なら花祭にも繋がります。
大宝元年(701)元宮(稲田神社)の地に
牛頭天王の神社が創建された後に、
天徳元年(957)現在地に遷座したとされ、
怪しい臭いがプンプンしていますね。
701年といえばお馴染み壬申の乱の後に
古事記・日本書紀が編纂された周辺で、
稲田神社の名もいかにも稲荷と関係し、
豊川稲荷との関係を臭わせます。
貞治二年(1363)満良(みつよし)親王が
この神社に参拝したとされていますが、
満良親王は後醍醐天皇の皇子であり、
三明寺を再興した無文元遷(むもんげんせん)と
同一人物とも言われている人物です。
豊川稲荷と関係する二つの信仰拠点が
南朝と関係していたとするのであれば、
豊川稲荷も南朝と関係していたと見るのは、
それ程間違いがある訳でもないでしょう。
豊川稲荷も進雄神社も移転されたもので、
地理的な関係性が偶然のものであり、
それ故に南朝と関係がなかったとするのは、
室町幕府サイドの情報操作の可能性は
存在しえないものなのでしょうか。
豊川稲荷は南朝と敵対した今川氏が
建立した寺院とされていますが、
幕府サイドが創建の伝承に関わるなら、
三河吉野朝の痕跡を抹消する目的で
豊川稲荷の歴史が捏造された可能性は、
非常に高いものであると考えています。