豊川稲荷は曹洞宗寺院とされますが、
本当にそうだったのでしょうか。
東三河の曹洞宗寺院を探っていくと、
修験道の痕跡が見受けられる場所が
複数存在する事が分かります。

南朝関係の城があったと伝承される
春興院の境内にあるイボ取り地蔵は、
どう見ても地蔵でなく役小角です。
ここも曹洞宗寺院とされますが、
なぜ修験道の開祖の石像が、
別の名前で祀られるのでしょう。
豊川稲荷と関係の深い歓喜院も
本堂では聖天を祀っていますが、
境内には役小角の石像があります。

豊川稲荷のルーツとされる西島稲荷も
境内に役小角の石像が安置されており、
同じく曹洞宗寺院とされる豊川稲荷でも、
修験道や密教が修されていた可能性は
非常に高いと見て良さそうですね。
豊川稲荷創建伝承に今川氏が関わるなら、
東三河の曹洞宗寺院は室町側の今川氏が、
三河の南朝の聖地を封印する目的で、
密教的な色を抜いた曹洞宗への改宗を
強要したのではないかと推察しています。
豊川稲荷は霊能者である修行僧が
徐福王朝の神々を祀った聖地であり、
本来のダキニの修法が行われた
三大稲荷のカテゴリーの上にある、
原初の稲荷の聖地であったのでしょう。
と言いたい所ですが問題があり、
豊川稲荷は江戸時代に現在の地へと
遷座されたと伝えられています。
この疑問をさえ解決すれば、
豊川稲荷が徐福王朝に由来する
古代イナリの復興が行われた聖地で
南朝の祭祀が行われていた可能性が、
非常に高いものとなりますね。
三明寺と進雄神社の存在がこの回答で、
豊川稲荷が壬申の乱以前から
現在の地に存在したのであれば、
徐福王朝の痕跡なのは確かでしょう。