三河吉野朝の研究

復古神道で有名な平田胤篤が三河に来た時、
御津、御馬、御油等の貴い地名の由来を調べ
羽田八幡宮の羽田野敬雄氏がこれを継承し、
厳寺黙重和尚の実兄小林覚法師や
御津町の素村家服部美次翁などがこれに続き、
山ロ保吉氏が三河吉野朝を公表しました。

山口氏の『三河吉野朝の研究』と言う本来は
かなりコアな研究が書き記されていますが、
どこまでが正しいか根拠不明な部分が多く、
ソースが明確だと検討しやすいので、
折角の研究なのに残念な部分があります。

全くの妄想で書いとは言えない部分も
多々見受けらるので盲信せずに
データの一つとして検討をするなら、
読んでおいても良い本だとは思います。

この本に記された内容の中に、
卍山についての記述があります。

三河南朝の超重要な聖地なのに、
既存の情報ではこれは嘘となって、
この本の信憑性も落ちますが、
実地調査で事実であった可能性が
浮かび上がるのが凄いですね。

ここから南朝の信仰を探る事は
十分可能ではあるのですが、
実地調査となると遠方にまで
足を伸ばす必要があるので、
経費が落ちない状況下では、
中々に厳しいものがあります。

調査ツアーでも組んでみて、
参加費で落とす手もありますが、
こんなレアな企画に数万出す人が
存在するかは不明なところで、
そこまで研究する必要があるか
微妙なところもありますね。

最近また新たに課題が出てきて、
日本史のイメージを書き換える
研究になるのは間違いないですが、
ボランティアでどこまでやる
必要があるかの線引きが微妙で、
撤退ラインを考えておかないと、
他に色々と支障が出そうです。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする