行基と土師氏

行基が公共事業をなした事は有名ですが、
決して彼一人で行った訳ではなく、
当然、集団を指揮して運営していました。

行基の元に大勢が集まって来たとしても、
素人の集まりを運営して成果を上げるだけの
基幹的な人材が確保されていなければ、
大きな成果をあげる事は無かったでしょう。

遥か以前から蓄積されてきたノウハウが
行基集団に存在していたのであれば、
壬申の乱以前の邪馬台国の運営に
関係してきた勢力が関係するはずです。

壬申の乱で古墳時代が終わりますが、
古墳を造営した土師氏(はぜし)は、
出雲系の氏族とされています。

彼らが戦乱から集団で山奥に隠れて
花祭などを継承してきたのであれば、
大規模な祭の継承に耐えうるだけの
共同体運営が可能なだけの人材が
移住していたのでしょう。

最古の部類に入る古戸の花祭も、
古戸が元は古都と呼ばれていた事から、
都を造れるだけの人員の移動がなされ、
様々な分野に股がるノウハウが
継承されてきた事が伺われます。

花祭も修験の祭ではありますが、
花祭の継承されてきた奥三河も
三遠から北上した山奥にあり、
四方清との共通性があります。

行基集団はピラミッド状の
建築物も造っていますが、
邪馬台国には想像より上の
建築技術が存在した可能性を
妄想するのも楽しいですね。

出雲大社の高層建築物の存在など、
古代の技術には謎が多いですが、
行基集団にこのノウハウが受け継がれ、
民を救うために活躍したのであれば、
中々にロマンを感じさせてくれます。

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