『華厳経』は高僧によりコータンから
中国に持ち込まれて漢訳された後、
朝鮮半島や日本に伝播したとされます。
今日でも朝鮮の仏教はひとえにこの
『華厳経』を拠りどころとしています。
インドネシアのジャワ島にある
ボロブドゥールの遺跡の石の回廊に
様々な絵が彫刻された大部分が、
『華厳径』「入法界品」に記された、
善財童子が様々な相手に教えを授かる
シーンを表現したものとなっています。
これらが彫られたのは750年~850年で、
東大寺の大仏開眼は752年とされており、
この時代の華厳経の隆盛が広範囲に
及んでいる事が分かります。
『華厳経』のチベット訳に中央アジアの
カシュガルの地名が登場しており、
東アジアに限定されない広範囲で
重視された経典だったようです。
インドからシルクロード、コータン、
中国、朝鮮半島、日本、ジャワに至る
全アジア圏で華厳経に記された情景が
共有されたのが行基の時代であれば、
東大寺の大仏が華厳経の如来なのは、
如何なる意味が存在したのでしょうか。