奈良の大仏が盧舎那仏像であったのは、
華厳教に登場する如来であったからで、
この経典は武則天も支持していました。
唐は武則天により周と呼ばれる事となり、
華厳教の平等観とは真逆の残虐な政治が
行われる事となっていきます。
アリストテレスはアレクサンダー大王に、
ギリシャ人を友としそれ以外は奴隷として
扱う事を進言したとされていますが、
アリストテレスを真理として取り上げた
キリスト教圏でも異端審問で虐殺され、
人類愛と言っても枠外にはエグいですね。
神に選ばれたと自負する優越感と
真理を知っているとするプライドは
何かしら通じるものがありそうで、
反面の見たくない部分に対しての
対応については微妙そうです。
武則天は一神教を保護していましたが、
旧約聖書は異民族への侵略・虐殺や
ヒエラルキー外の神々の否定を説くので、
異なる神を信仰する勢力に対しての
残忍な行為を善としたのでしょうか。
712年に玄宗が即位すると密教を支持し、
華厳教は急速に忘れ去られていきます。
玄宗は聖武天皇を認めておらず、
唐との関係を重視するのであれば、
華厳経の大仏を建立するよりは、
唐側に覚えの良い経典にした方が、
遥かに良かったとは思われます。
新羅で華厳経が独自の発展を遂げたので、
新羅重視を考慮したのかも知れませんが、
大仏建立後に藤原仲麻呂が新羅侵略により
国内の問題から目を逸らさせようとして、
最終的に自滅していますね。
日本は渤海との交流が盛んであり、
大仏建立前に渤海王が唐側に下り、
なぜ日本が強硬に華厳経の大仏を
建立しようとしていたかには、
アジア情勢全般からの見直しが
必要となって来るでしょう。