『続日本紀』天平元年(729)四月三日条には、
文武百官および天下の人民は異端を学び、
幻術を身につけ壓魅(えんみ)呪咀で
多くの者に害を与えたならば、
主犯は斬刑、従犯は流刑とする。
山林に籠り、仏法を修めたと偽り人を教化し、
業を教え、呪符を封印し、薬を混ぜて毒を作り、
怪しいことをする者も同罪とする。
妖術、妖言の書をもつ者は五〇日内に中し出る、
期限内に申し出せず告発されれば流刑に処す。
告発した者には絹三〇疋を与えるが、
この絹は罪人を出した家から徴収する。
という勅が出されたと記されますが
当日はこれらが実際に行われたなら、
その残虐さはかなりのものです。
とは言っても実際に悪辣な事をして
取り締まられたと見る事は出来ず、
行基を見れば問題行動は全く無く、
何が問題だったのでしょうか。
山林修行については修験道ですが、
当日は神道と言う用語が存在せず、
役小角が壬申の乱で活躍した後に
それ程たっていない時期であれば、
先住民族祭祀への弾圧なのでしょう。
呪術や薬により民を治療し、
道理を教える事で人生を改善し、
民のために動いたと修験者達が
異端扱いされ殺された可能性は、
非情に高いものと思われます。
旧約聖書では他の神への信仰は
全て異端扱いして排除していますが、
アレクサンダー大王やアショーカ王は
様々な宗教に相互研鑽を積ませています。
アレクサンダー大王が唯一弾圧したのが
ゾロアスター教とされていますが、
一神教的な残虐行為が行われた事に対する
対応としての取り締まりであったのか、
これを恨みに持った一神教徒による
復讐の流れは岩戸開きの本に書きました。
この時期に三つの一神教が流入した事は
既に記事に書いてはありますが、
行基集団への弾圧行為の背景には、
一神教的な教義が存在したのでしょうか。