久米田池は行基が十四年かけて
七三八年に完成させたとされますが、
工事の着手が七二四年となりますね。
しかし『続日本紀』には七三〇年に
行基が妖言を吐いて大勢を説教し、
民衆を惑わしたとされており、
行基が弾圧対象下にあった時期に、
橘諸兄と協力して公共工事を
実行していた事になりますね。
と言う事で久米田寺の存在は、
既存の行基伝承を根底から覆す
重要な寺院である事が分かります。
橘諸兄が藤原四兄弟の死後に
権勢を振るったとされるのは
七三七年の話とされており、
行基のみならずこの時代の認識を
完全に見直す必然が浮上します。
たまたま拾い物的な発見でしたが、
実際に出向いてはみるものですね。
奈良から平安時代にかけて
久米田寺の歴史は不明瞭で、
鎌倉時代に再興された時には、
相当荒廃していたそうです。
こう言う類いのものこそ、
いかにも私らしい案件ですが、
どこまで真相に迫れるか、
皆さんはどう推理しますか。