浜松の音楽

儒教の経典『書経』に、尭(ぎょう)帝が皇位を譲りたいが
身内に良い者がいないので舜(しゅん)に娘二人を嫁がせ、
家を治められるか試験をした記述があります。

尭を継いだ舜帝が民に音楽を教える事を命じる件があり、
この記述を読むと夏王朝より前の古代中国では
音楽は神・人を和するものとされていた事が分かります。

帝曰、夔!命汝典乐、教胄子、直而温、宽而栗、刚而无虐、简而无傲。
诗言志、歌永言、声依永、律和声。八音克谐、无相夺伦、神人以和。
帝は言った、夔(き)よ、汝に樂典を命じる。直でも温かく、
広いが厳しく、剛でも虐げず、簡でも傲りなく、若者を教えよ。
詩は心を言い、歌は言を永くし、声は永きに依り、律は声を和す。
八音よく調和し、倫を互いに奪うこと無くば、神人を和す、と。

徐福により儒教が持ち込まれたとすれば、
秦により消失した古代中国の音楽理論が持ち込まれ、
三遠の地でも神と人を和合させる音楽が奏でられ、
このDNAが浜松を音楽の街としたのでしょうか。

古代中国の音楽についてはこの本が詳しいですが、
ここに記されていない音楽の記述もあるので、
それらを読み解く事で弥生の三遠の音楽を
研究していこうと思います。

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