詩経と御神木

『詩経』には木に神が降臨する事が
記されたものが存在すると言う
解釈がなされる詩が存在します。

『樛木』は漢字は難しくても、
何となく理解の出来そうな
シンプルな構成をしていますね。

南有樛木 葛藟纍之
樂只君子 福履綏之

南有樛木 葛藟荒之
樂只君子 福履將之

南有樛木 葛藟縈之
樂只君子 福履成之

南に高木あり 蔓がまきつく
君子は楽しみ 福を約束する

南に高木あり 蔓が覆う
君子は楽しみ 福は大きい

南に高木あり 蔓がからまる
君子は楽しみ 福を成す

白川静氏は詩経の「南」は、
神聖感を伴う用語として
用いられていと主張します。

『論語』の八佾篇にみえる

哀公扦を宰我に問ふ。
夏后氏は松を以てし、
殷人は柏を以てし、
周人は栗を以てす。

を古代中国ではそれぞれの族社に
神や祖霊の降臨する依代としての
神樹が祭られていたとする解釈を、
家井真氏が提唱しているそうです。

神木に降りる君子の解釈では
ただの危ない人になりますが、
神霊・祖霊と解釈すれば通ります。

『詩柽』にける君子は思慕の対象、
恋人・君主・神霊などとして
用いられる事が多いそうですが、
孔子が詩に精通していたのであれば、
君子は神が懸かれる磨かれた人で
用いられた可能性も出てきますね。

赤塚忠氏は『詩経研究』の中で、

神霊は何処にいるか分からないので、
古代には神霊が降ると信じられていた
聖域に生えている草木などを依代とし、
これに呼びかけて神霊を招き降したのである。

としている事から考えると、
神社の御神木も神霊が降臨する
依代とされていた可能性も
ゼロではなさそうですね。

詩経における南の用語は、
方位ではなく国であり、
倭国と関係する説の話は、
既に記事にしてあります。

徐福が儒教の六経を持ち込んだなら、
銅鐸時代の祭祀に詩が関わっており、
神の降臨する寄代としての木への
祭祀が存在した可能性があります。

神社で御神木に何か感じたのなら、
古代に神の降臨とされていた物に
触れられたのかも知れません。

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