植物に音楽を聞かせるのではなく、
植物自体が音楽を奏でているとすれば、
どのように感じるでしょうか。
midi音源に変換しないと聞けませんが、
それでも耳には聞こえない微細な音楽を
奏でているのが草なのかも知れません。
人の目は可視光線の範囲しか見えず、
耳でも聞こえる範囲は狭いですが、
少し広がるだけで全く違う世界が
展開されている可能性はありますね。
音に耳を傾けていると周波数が合うのか
精神状態にまで変化が出てきますが、
耳には聞こえくても囁きを聞くように
静かに意識を向けてみる事をすれば、
植物の声が聞こえる感じはしそうです。
美しい田畑は美しい音楽を奏でていて、
工業製品を作るような苦役を受ければ
悲鳴が聞こえそうではあります。
田んぼでカエルや虫の音が聞こえると
古き良き時代を思い起こさせますが、
本来の農業は自然の様々な存在と
美しいハーモニーを奏でるような
創造的な要素があったのでしょう。
農耕祭祀はこれらの存在と共に
喜び会うのが基本とされており、
祖霊などの見えない存在との
関係をも重視されています。
奴隷の苦役として農業を捉えるか、
共に創造していく物とするかは、
本人の関わりかた如何なのでしょう。
食の贅沢しか見ないような
狭い視野を広げていけば、
遥かに豊かな世界が在る事が
見えて来るかも知れません。
前者では灰色の人生になっても、
後者であれば人生の彩りは
想像以上に美しいものとなり、
魂までも豊かにしてくれます。
道端の花も音楽を奏でているなら、
豊かな世界に生きているのに、
科学で全てが分かった気になり、
世界を狭めているのが現代に生きる
我々の姿なのかも知れませんね。