以前スーパーで買ってきた大豆を
土に植えた事があるのですが、
芽が生えてきてスゲーと思ったら、
豆がカスカスで遺伝子ヤベーと
ビビりまくっていました。
日本は世界的にみても食料品の
薬品の規制が最低クラスなので、
土から何から自分で納得出来る
食べ物を作ろうと思いたって、
大豆の栽培に挑戦しています。
大豆の花が咲いたと思ったら
可愛い枝豆を着けて来たので、
ここから放置すれば大豆になり、
味噌なり醤油なりが作れますね。
ただ枝豆も美味しそうな雰囲気で、
採って二粒食べてみましたが、
ほのかな甘味が口中に広がって、
自然の生命力が全身に行き渡り、
深い癒しが感じられました。
溜まった疲れが出て来たからか、
深くリラックスしてきたので
暫く横になって寝ていましたが、
心地好い脱力感を味わったのは
久しぶりな気がします。
決して大粒ではないものの、
数値化できなそうな価値が
詰まっている感じがしますが、
大地や自然に抱かれるような
生命力を取り込む感覚は、
中々味わう機会がありません。
こう言う物を食べていると、
金に物を言わせる贅沢も
悪食に思えて来ますが、
昔の人が地霊や作物の霊に
感謝を捧げていた理由も
分かる気がしてきます。
栄養価だけでは量れない
深い豊かさのある収穫は、
昔の人が農耕祭を行った
重要性を感じさせます。
米を作っているなら甘酒にして
収穫祭と行くのが定石ですが、
こんなに美味い枝豆であれば、
ウブスナの社に奉納しても、
極上の捧げ物になりそうです。
昔の君子は功績のあった者は
全て報いたと言う事ですが、
農耕祭祀にも反映されています。
農耕も太陽や土、雨や川、
微生物やミミズなども含め、
様々な関与が存在するので、
これら全てと喜び会う祭が
詩経に記された姿ですね。
日本で言えば水神や龍神が
神社に祀られたりしますが、
雨水を司る神々の働きも
農耕において重要ならば、
近所の神社に祀られていれば、
感謝に行く方が良さそうです。
田の神を山の神と捉えるか、
祖霊とするか等の微妙な違いは
場所によって見て取れますが、
ともかく様々な恩恵が無ければ
食べ物一つ作れない事になり、
生存に直結する話となります。
これらを知識と力で支配する
傲慢な思想で肥大化したのが
近代文明であったなら、
根幹からの見直しが必要です。
世界や国に頼ろうとしても、
誰かに押し付けようはNGで、
儒教では国の雛型を家とし、
家は自分個人を棚上げしては
整えられないとします。
であるとすれば家庭菜園から
色々と見直す事から初め、
それを広げて行く事こそが、
近道である事になりますが、
二宮尊徳の読んでいる本にも、
その通りに書いてあります。
財政再建を数多く成し遂げた
二宮尊徳の思想の中核に
この様な思想があったなら、
個々人が責任と向かいあう事が
重要な課題であるのでしょう。
人に押し付け何もしない事は、
目先のメリット以上に大きな
長期的なデメリットが存在し、
崖に向かって走っているなら、
軌道修正は早い内にですね。