農業祭

最近自作している作物を食べると、
美味しいと言う感覚を通り越して
畏まる気持ちにさせられます。

自然界の様々な恩恵があってこそ
収穫を味わえる事に実感が伴うと、
食事も神聖な儀礼のような感じに
なって来る事がありますね。

実社会では税金を納めなければ
水道を停められたりしますが、
自然の恩恵を無視して搾取しても
自分に直接損失が及ばないからと
無視しても良い物なのでしょうか。

自然へのリスペクトは人として
最低限必要な礼儀であって、
口先だで何もしないのではなく
実際に行う農耕儀礼が伴ってこそ、
人としての責務を果たしていると
考えられていたのでしょう。

大地と対話しどれだけ良い物を
クリエイトしていくかによって
人生の重さが大きく変わるなら、
単に作物を育てる事を越えた
積極的な意味合いが含まれます。

単に栄養素を摂取するのではなく、
自然の生命力を取り込むような
独特な感覚を得られる事は、
現代の食生活では希ですね。

花祭は鬼神がマジカルステップで
大地の生命力を喚起させますが、
呪術であり御神事である花祭が
邪馬台国の農耕を豊かにした事は
ほぼ確実な事なのでしょう。

2019 榊の問答

後に陰陽師等に受け継がれた
反閇(へんばい)ですが、
密教の方であればこの価値を
十分理解出来るでしょう。

陰陽道や真言・天台密教以前の
邪馬台国の呪術が残るなら、
どう扱うのが正解でしょうか。

卑弥呼の時代から壬申の乱まで
四百年以上も継承されたのは、
それだけの価値が国家的にも
認められて来ていなければ
無理な話ではあります。

現代でも花祭を行うに際し
様々な準備が行われますが、
共同体で協力して御神事に
参加する事で得られる価値は、
見た目以上の物がありそうです。

現代では機械化した農業で
少人数でも成立しますが、
本来は大勢が関わるので、
祭も共同体単位になります。

自然界の精霊と関わる事は
地に足の着かない話ですが、
祭で鬼神と共に楽しむ事で
ダイレクトに感知されます。

花祭の舞は神聖なものとされ、
これを鬼神に捧げる事で
鬼神の恩恵を受け取るなら、
現代人はタダ乗り状態です。

都合の悪い事を押し付けて
楽をしようとするのなら、
カードで借金をするように
後に返済が強要されます。

自分で蒔いた種を刈り取るなら
悪い種を蒔く事を取り止めて
良い種を蒔く事が重要ですが、
祭のように型がある事で、
高い成果をあげられます。

家庭菜園等を始めていき、
周囲の人達とも物々交換で
様々な作物を得られる様に
拡散されていったなら、
次は皆で収穫祭ですね。

気持ちが籠っているものなら
形を問う物でもありませんが、
効果の高い型が継承されつつ
壊滅寸前の状態にあるのなら、
大事にしない手はありません。

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