自然の緑に心身が癒されると
考えられる事が多いですが、
植物の力は侮る事が出来ず、
人を脅かす力も持っています。
とある老人男性が一人で住む家で、
タケノコが座敷の畳を突き破り
生えてきた事があるそうです。
『森と生きるー対立と共存のかたち』に
オーストラリアのアボリジニー達が
森に家を建てたがる白人達に対して
何も分かっていないと言った事を、
小山修二氏が記述しています。
住み辛く一年も経たない内に
屋根が腐り始めて虫が湧く森に
住みたがるの無知な白人の姿は、
自然と軽く言う現代人にも
通じる所があるかも知れません。
田舎に憧れて行ったは良い物の、
想像していたものと違う事は
結構ありそうな気もしますが、
田舎から都会に出た後に
価値が分かって帰って来る人が
活躍する話も聞きますね。
科学技術で自然を支配して
富を得ようとする文明圏の中で
贅沢が出来る現代日本において、
緑の力を甘く見ている傾向は
多いにありそうです。
自然は恐ろしい力を持ちつつも
人間に恵みを与える存在であり、
東洋では自然界を司る存在として
龍神を祀る事が良くありますが、
怒らせたら勝てない存在としての
象徴としても十分なものでしょう。
いなければいないで不満があり、
いたらいたで不満があるのは
人間関係でも良くある話ですが、
関わり方の問題でもありますね。
古代中国で治水を任された禹は、
暴れ龍たる川を力で押さえられず、
流れを読んでコントロールする事で
治水を成功させたそうですが、
緑の秘めた力を上手く活用する
参考になりそうな話です。
発想が近代文明ではなく太極拳的で、
太極拳を扱うには力で押し込めるのと
体の使い方が根本的に違ってきますが、
国家運営も似たような話になりますね。
彼を知り己を知れば百戦してなお
危うからずと言う孫子の兵法から、
植物や森に対する理解と共に、
自らに対する理解も深める事が
重要になって来るのでしょうか。
江戸時代にはこれらの知恵は
現代よりも遥かに高かったので、
現在の教育は薄っぺらい知識を
詰め込む程度のものである事に
なりかねない部分がありそうです。
江戸時代の様々な文献を読むと、
現代とは違った発想で書かれた
優れた物が数多くありますが、
古代に大規模な焚書があった様に
南朝の本が大量に焼かれています。
アレクサンドリア大図書館の
悲劇の再来を思わせますが、
秦で焚書された大量の文献が
徐福により持ち込まれています。
壬申の乱でこれらが焚書され、
南朝がこれを復興したとしても、
完全には無理だったでしょう。
であれば徐福王朝は更に凄く、
地獄を思わせる程の緑の力も
有効に活用出来ていた可能性は
かなりの物になりそうですね。