東三河に徐福が来た話は
私の仮説として限定される
話でしかないと思われる方も
いらっしゃると思わますが、
そうとも言い切れない話です。
某神社で神主さんと話をして
歴史について聞いた時に
徐福の話題を持ち出したら、
良く知ってますねと言って
色々と話をして貰いました。
本だけ読んで推理ではなく
足で稼いでいる情報なので、
本代だけでなく調査費も
馬鹿にならない所が難点で、
史料の少ない古代史研究の
厳しい所ではあります。
まあ歴史学は基本推理なので、
既存の定説では説明できない
情報があるからと言っても
仮説が正しいとは言い切れず、
断定しない方が良い世界です。
ドヤ顔で語って間違いが分かり
訂正が面倒になる類いの話は
良くある事例でしかないので、
姿勢の問題が大きいですね。
神社の歴史研究を頼まれたら、
今まで断定していた内容が
間違いである事が明確になり、
対応の仕方で意見が分かれる
チャチャな話も良くあります。
音楽性の違い程度なら良いですが、
関係者への責任が出てくる話なら、
プライドか責任かで責任を捨て
誤魔化しを入れようとすれば、
人としての問題に関わります。
特に利害が関わる話であれば
その人の器が問われる事になり、
対象の仕方が明るみになった時に
信頼を失う事は宜しくありません。
と言う事で歴史研究と言っても
学術的以外の問題の方が大きく、
根幹的には関係者の生き様が
問われる話でしかありません。
特に徐福の話は格負けするか、
虎の威を借る狐になるかの
何れかのケースが多い感じで、
内容が大きいだけに関わるなら
気宇壮大さが必要となりますが、
現代に一番足りない物ですね。
大義名分を語っていながら、
人を利用する事しか考えない
問題行動も良く見られますが、
自分がやってもいないのに
説教を垂れているのであれば、
幼稚なレベルでしかありません。
故人が現代に生きる人達に
生き様を問うて来るのは
面白い話ではありますが、
いずれは死ぬ時になれば
自身の人生を問う事になり、
自分も故人になりますね。
あの世に行って故人と
何を話すか等については
何とも言えない話ですが、
まともに顔向け出来ない人は
大勢いそうではあります。
歴史は鏡とは言いますが、
自分の生き方を鑑みるのを
要求してくる事こそが
真の歴史の価値であり、
それ故に抹消する必要が
感じられたのでしょう。
大陸から文明を持ち込み、
高度な文化を開会させた
徐福の数々の痕跡は、
この国に必要なビジョンを
教えてくれる事でしょう。
コメント
某お寺の(京都)住職の話にも叙福の話は出てきて
驚く話が多かったです。
興味の有る方だったので、実際に訪ねてお話も聞かせていただきました。
耳は二つ口は一つという言葉を最後に頂きこの言葉の捉え方を今でも考え中です。(5年間)
歴史って多数の捉え方があって面白いと思いますが、真実を覗き見してみたいですね
いつも興味深いブログだんだんです^^
歴史捏造の害は想像以上に大きいかも知れませんね。
私の研究が一定以上拡散されれば、日本に変化が起こると思い執筆を続けています。