地元の調査に回っていると、
建て替え費用が捻出出来ず
寄付を求めている神社を
見掛ける事があります。
神社と言うと御利益のため
参拝に行くイメージが
強くなってはいますが、
色々としてもらっている
感謝をするのが前提ですね。
水や空気、食べ物や平和等、
現代日本でタダと思われている
当たり前とされかねないものが
世界を見てもそう言えるかは、
難しい所があるでしょう。
明治維新以降に西洋化し、
パイの奪い合いをして
贅沢しようとする考えが
広まってしまいましたが、
自然からの搾取が前提です。
自然との関係を良くすれば
豊かな収穫につながるので、
ゼロサム型の搾取とは
違う基盤で動かすものが、
本来の形だったのでしょう。
自然界の様々な働によって
無料で恵みが得られますが、
神祀りは礼が基本とされ、
国家で運営するレベルです。
私の執筆活動も近い所があり、
経費の捻出に寄付を募っても、
無料で公的サービスを受け取り
責任は棚上げのケースもあり、
何かと親近感を感じさせます。
長期間関わっている話なので
神社関係者とも話をしますが、
場所によっては関係者にも
見直しが必要なケースを
見掛ける事もありますね。
本気ならこう動くだろうと
思しき行動をしていないと、
人を動かす姿勢としては
不備があるのは当然です。
確かに立場的に理解出来る
話もあるのも分かりますが、
神前でやましい所があれば
どんな目に遭っても良いと
宣言出来る人は希でしょう。
無くなった時に大切さが
分かる事は多いのですが、
自然の恵みは生存に関わる
取り返しのつかない要素が
存在しているのは確かです。
むしろ自然からの逆襲を
受けかねない生き方を
現代ではしているのに、
慈悲深いものだと思います。
神仏と言うと慈悲が深い
存在と思われていますが、
地蔵菩薩も閻魔大王の化身で
軍神としても信仰されます。
弁財天も二系統ありますが、
武器を持った姿でも知られ、
御利益を与えるよりも、
厳しく鍛えてモノにする
要素が大きい感じがします。
役小角が地蔵菩薩や弁財天を
呼び出した伝承は有名で、
天河弁財天の由来として
認知されてはいるのですが、
厳しく鍛える修験の仏です。
父性の厳しさと母性の優しさの
両方が成長には必要ですが、
現代の神社への関わり方は、
幼稚園児がおねだりする程度の
低い段階のようなな気がします。
良い大人に成長したのなら、
育ててくれた恩を返すために
主体的に動くのが普通ですが、
神社に対しても共通する所が
存在している感じはします。
今まで存続してきた背後に、
どれだけの人の苦労が
存続しているを考えると、
扱いも慎重になってきます。
価値を伝えるための執筆を
続けて来てはいるのですが、
知って終わりの話ではなく、
知った責任が問われるのは
間違い無いと思っています。