
1974年、西安の東北、臨潼県の農民が井戸を掘る最中、
複数の陶器の破片を偶然見つけた事で、
兵馬俑坑が発見されるきっかとなりました。
総面積約1万4260平方メートルの1号坑発掘の後、
2号坑、3号坑もそれに続いて発見され、
「20世紀最大の発見」と世界を騒がせます。
俑は殉死者の代わりに埋葬した人形(ひとがた)で、
20.000平方メートルを超える3つの俑杭には、
総計8,000点とされる陶製の兵馬が地下に配置され、
兵馬俑坑の西、約1.5キロメートルの地点にある
秦始皇帝陵を守護しているとされました。
司馬遷の記した『史記』には、
中国統一を果たした秦始皇帝が着手した陵墓の造営は
36年もの歳月をかけ70万人もの囚人が動員され、
地下宮殿のようであったと記されています。
始皇帝陵が築かれる前の発掘品には、
高さ20センチ程度の単純な形の像しかなく、
等身大の像が東を向いて整然と隊列を組み
表情、髪形、衣服の全てが違う像が並ぶ俑は、
ウィーン大学のルーカス・ニッケル教授は、
アレキサンダー大王の東征によりギリシャ彫刻師が移動し、
現場で地元の人を訓練して作られた可能性を示唆しました。
アレキサンダー大王は東征により、
各地でアレキサンドリアという都市を作り、
情報ネットワークで結びました。
このブログの名前もそれに因んでいます。
アレクサンダー大王はインダス川を渡れず
バビロンで死亡した事になっていますが、
アレクサンダーが組織した100人程度の別動隊が
秦帝国を建てる流れに繋がったとする研究もあり、
ギリシャと秦を繋ぐ可能性はゼロではないようです。
私の研究ではもう少し違う結論になりましたが、
兵馬桶がギリシアの影響を受けていたとすれば、
秦帝国にギリシア文化が流入し、
それを徐福が日本に持ち込んだ可能性は充分にあるでしょう。
これが日本神話とギリシア神話に密接な関わりがある理由だとすると、
騎馬民族よりも遥か前にこれらの文化が持ち込まれた事になります。
この周辺の研究を進めていけば、
三遠の徐福王朝の姿がより明確に見えてくるでしょう。