かの南朝を開いた後醍醐天皇は、
醍醐天皇の名にあやかって、
後醍醐の名をつけたとされます。
菅原道真左遷により地獄に落ちた
問題行動の指摘される天皇と、
後醍醐天皇が絡められるのは、
若干の違和感がありますね。
後醍醐天皇は伊勢神道を信奉し、
先住民族祭祀に連なる勢力の
伝承にも精通していたとすれば、
道真公の左遷の伝承についても、
本当の所を知っていたのでしょう。
後醍醐天皇が笠置寺に拠を構え
楠木(橘)を抱えた伝承は、
醍醐天皇が菅原道真を引き連れて、
笠置に来た伝承とリンクしそうです。
笠置寺と行基との密接な関係は
行基の本に書いておきましたが、
行基と共に活動した土師氏が
菅原家になっている事から、
深い意味がありそうですね。
醍醐天皇が笠置に行った理由と
後醍醐天皇とに関係があるなら、
藤原氏から独立した勢力構築に、
先住民族との協力関係の構築を
模索していた可能性がありますね。
宇多上皇の熊野参詣もこの流れで、
醍醐天皇がこれに深く関与した
痕跡が残されているのであれば、
藤原氏に唆されて道真公を大宰府に
左遷させた話に疑問が生じます。