941年に朱雀天皇が元服すると、
藤原忠平は醍醐天皇の治世から
引き続いて政治をしたとされます。
関白になる気のなかった忠平を
朱雀天皇が引き留めた事により
関白になったとされていますが、
この周辺には動乱があります。
朱雀天皇元服の二年前には、
平将門の乱と藤原純友の乱が
勃発したとされていますが、
この後の堀川天皇になると、
また摂政・関白を排除した
政治がなされたとされます。
問題なのが朱雀天皇は
八歳で即位したとされ、
譲位した翌月に死んだと
伝えられている事から、
背景に色々ありそうです。
醍醐天皇と村上天皇の治世は、
延喜の治・天暦の治と呼ばれ、
後世から評価されているものの、
その中間の朱雀天皇になると、
微妙な感じを強く受けます。
かの平将門・藤原純友の乱が、
この時代に起こったとされ、
藤原氏の栄華がこの天皇に
関係すると言われた事から、
大きな謎が存在しそうです。
朱雀天皇が藤原氏を引き留め
政治に関わらせたと言うのは、
それまでの路線と大幅に異なり、
この天皇の前後に優れた政治が
行われたとされる事からも、
腑に落ちない所があります。
醍醐天皇と朱雀天皇の墓に
参拝に行った事がありますが、
双方とも醍醐寺の近くにあり、
隠された歴史を感じさせるに
十分なものがありますね。
この周辺は本に纏めるなら
書く可能性はあるのですが、
余力がないので保留です。