『続紀』は亀山四年九月に、
出羽国に北方の国から派遣された
使節団が到着した記録があります。
蝦夷地に漂着したので
十六人が殺害された後、
残る八人は出羽国に行き、
朝廷は存問使を派遣して
奈良に迎えたとしています。
使節団が翌年の正月元旦には、
宮中の賀正の儀式に参列し、
一七日には中宮での大射の礼で、
雅楽寮が音楽を奏でる最中、
聖武天皇に対し自国王からの
贈物と国書を呈上します。
武芸啓(もう)す。
山河域を異にして、国土同じからず、
延(ほのか)に風猷(ふうしゅう)を聴きて、
但傾仰を増す。
伏して惟(おも)うに、
大王の天朝命を受け、日本の基を開き、
奕葉(えきよう)光重く本枝百世り。
武芸忝(かたじけな)くも列国に当れり、
濫(すべて)の諸蕃(しょこく)を惣(す)べる。
また高麗の旧居を復して、
夫余の遺俗を有(たも)てり。
但、天涯路阻(みちへだ)たり、
海漢(ひろ)く悠々たるを以て、
音耗(おんもう)が通ぜず吉凶問うことも絶つ。
親仁を結び援せん。
庶わくば前経に叶(したが)い、
使を通じて隣に聘(へい)すること今日に始めむ。
これを見ると明確に高句麗を復して
夫余の遺俗を残したとしています。
日本と渤海の関係は727年に開始され、
高句麗を滅ぼした唐や新羅に対する
軍事同盟を持ちかけられたと、
一般的に考えられているようです。
この二年後に長屋王が死に、
更に翌年には行基集団への
禁止令が出されています。
日本・渤海同盟は白村江の戦における
二大勢力の抗争の焼き直しであり、
アジア情勢には全く振り回される
素振りすら記されていないのに、
実際にはキナ臭かった感を受けます。
渤海との関係が聖武天皇の時代からなら、
この時代に起こった藤原広嗣の乱や
度重なる遷都、東大寺大仏建立など、
一連の出来事に関係はあった事は
『行基菩薩とヘレニズムの復興』に
詳しく書いておきました。
道真公とは関係の薄い話なので、
ここでは詳細は省きますが、
後の時代の研究になればなる程、
膨大な積み重ねが必要となるので、
私の説が正しいと仮定すると、
解けない謎が多く出る事になります。
日本史は遥か昔の出来事において
ボタンをかけ違えられた事から、
真相にたどり着けない問題が、
数多く存在していそうです。