渤海使ウスボス

阿呆機が渤海国を滅ぼし子の倍を置いて
東丹国を作ったと伝えられており、
渤海の使者として日本に来たウスボスを
臣として取り込んで日本に送り、
送り返されたとされています。

後に東丹国は支配していた渤海人から
武力で反撃を受けるのと同時に、
阿呆機の死に伴う契丹内の権力抗争等で、
2年後の928年に東丹国は遼陽に移転し消滅、
渤海王族が後渤海国を建てたとされます。

しかし王と弟の抗争で数十万の有力な民が
新たに建国された高麗王朝に何派にも渡り
移住した事によって没落していきます。

後渤海国と日本との関係については、
記述が残されておらず分かりません。

『遼史』に記された日本からの
三回の来貢を調べてみると、
初回が925年なのに対して、
1091年・1092年と165年近くも
間が空いている事が分かります。

東丹国からの使者が930年に来たと
伝えられている事に矛盾するのが、
928年の東丹国の移転ですね。

様々なところに矛盾が見えるのが、
この時代のアジアとの関係を
扱いにくいものにさせています。

藤原純友の乱は939年とされており、
契丹への貢朝が空白であった期間に
大宰府が破壊された事になりますが、
この周辺の時代はアジアとの関係が
断絶していたとされているのは、
この周辺の事実を隠蔽するための
捏造であった可能性は高いでしょう。

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